9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和8年4月号

  物語水戸学(十一) ― 弘道館の教育 ―    
      梶山孝夫/水戸史学研究会代表理事 博士(文学)

弘道館の設立

斉昭(なりあき)公のもう一つの重要な改革は藩校弘道館(こうどうかん)の設立です。それは改革事業の推進には、何よりも人材を必要とするからです。水戸藩では早くから教育機関の必要性を痛感していたようですが、思うようには進捗しませんでした。斉昭公の時代になって、ようやくその気運が起ってきたのです。

弘道館では、文武兼備・神儒(しんじゅ)一致・学問事業の一体化などを目標とした総合学園をめざしました。教育方針や理念は藤田東湖(とうこ)が起草した「弘道館記」に明かであり、またそれを詳細に解説した『弘道館記述義』にうかがうことができます。

冒頭の「弘道」の文字は、人こそが道を弘めることができる所以(ゆえん)を高らかに謳(うた)いつつも、分かりやすい問答体の文章を採用しています。そこには水戸学の神髄が込められているといえるでしょう。弘道館は水戸城三の丸に建設され、その敷地は五万七千坪(つぼ)(十七万八千二百平方メートル)に及んでおり、他に類をみない空前のものでした。幕末の水戸が天下に名を馳(は)せることになりましたのは、この弘道館によるところが大きいといっても過言ではありません。


弘道館記

「弘道館記」が問答体の文章であることはすでにふれましたが、その具体相をみてみましょう。質問は次の五つです。

 ①弘道とはどういうことですか
 ②道とは何ですか
 ③弘道館は何のために設立されたのですか
 ④建御雷神(たけみかずちのかみ)を祀ったのは何のためですか
 ⑤孔子廟(こうしびょう)を営むのは何のためですか

これらの質問の答えは、次の通りです。  

① 人が道を弘めるということで、道は自然に弘まるのではありません。
 ② 道は天と地と同じように自然界の秩序であり、人が常に護らなければならないものです。
 ③ 弘道館はわが国の長い歴史の中で培われたものを守り受け継いで、道を推し弘め、先祖の徳を輝かし、その努力をするために設立されたのです。
 ④ 建御雷神を祀るのは、建国の時に功績があったからです。
 ⑤ 孔子廟を営むのは、孔子の学問を学ぶためです。
ですから、わが国の民はこの館に出入し、わが国の道を中心として外国の教えを採用して学問を積み、国家の恩に報いるならば、祖先の志に添うことができるでしょう。

おおよそは以上ですが、第三問のところでは歴史をかえりみて、それが今日の弘道館設立につながることを述べています。すなわち東照宮(家康公)が泰平の基礎を作り、頼房(よりふさ)公が水戸の藩主として神道を尊び、それを光圀(みつくに)公が受け継ぎ、学問を推(お)し弘めて先祖のご恩に報いようとしたのです。このような経緯をふまえて自分が、すなわち斉昭がこの館を統率(とうそつ)するのですと結んでいます。

この「弘道館記」を詳細に解説したのが、東湖の『弘道館記述義』ですが、この書物は水戸学の聖典ともいえるものです。


弘道館の施設と教育

弘道館の設立時期は他の藩校と比べて決して早いわけではありませんが、規模は空前のものでした。主な施設としては藩主が臨席して儀式などを行なう正庁、文武の教育を行なう文館と武館、医学館と薬草園、歌学局、兵学局などをはじめとして、多くの施設がありました。また建御雷神を祀った鹿島神社(かしまじんじゃ)、孔子を祀った孔子廟、「弘道館記」の碑文を収めた八卦堂(はっけどう)などが設けられました。

教職員は藩の政務を兼ねていました。これは政務(行政)と教育の一致をめざしたからです。主な役職には学校総司、学校奉行、教授頭取(総教)、准総教、教授、八卦堂助教、訓導、舎長などがあり、その他実務の担当者がいました。これらの教職員が一丸(いちがん)となって、藩士の子弟の教育に当たりました。

実際の教育課程をみてみますと、まず入学すると講習生となります。学問が進むにつれて会読生(かいどくせい)、輪講生(りんこうせい)となり、やがて居学生(きょがくせい)へと進むのです。日課としては、午前に学問(輪読・会読)、午後に武道となります。試験は試文といい、藩主が臨席する試験もありました。入学式はありましたが、卒業式はなかったようです。学問は生涯継続すべきものとの考えに拠ったからです。剣術や本草学などには、著明な指導者が招かれました。

それではどのくらいの藩士が学んだのでしょうか。開館から明治初年の閉館までの舎長と居学生の人員数は、舎長が五十九名、居学生は二百四十四名にのぼっています。その中には、居学生から舎長に昇進した者が四十三名おり、さらに舎長から訓導に昇進した者は、十一名です。弘道館で学んだ主な人物としては、茅根寒緑(ちのねかんろく)・原市之進・津田信存(のぶかつ)らが知られています。茅根は東湖の後継と目され、原は一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)公に仕え、津田は学者として大きな役割を果たしました。


学則

学則は学生の心構えを定めたもので、九か条から成っています。その原案を総教の会沢正志斎(せいしさい)が作成し、他の同僚の意見を取り入れながら完成しました。

条文を紹介しますと、第一条では「館に出入する者は館記を熟読し、そこに秘めたる深意を理解するべきです。また神儒一致、忠孝一致、文武一致という精神をふまえて努力しなければなりません」と述べ、第二条では神儒一致の学問についてさらに詳細を説いています。第三条には斉昭公の学問が明確に表明されています。

そこには「古(いにしえ)には六国史(りっこくし)がありますが、古事記(こじき)が最も古く、日本書紀(にほんしょき)がそれに次ぎます。それらには天照大神(あまてらすおおかみ)が神器(じんぎを)伝える神勅を詳らかに説いて、永遠に伝えるべき宝訓としています。その他の史書にも伝えられていますので、併せて参考とすべきです。律令は古今を貫く大典ですし、格式(きゃくしき)も参考として備えるべきです。家康公・頼房公・光圀公の言行や法令は、今日の規範です。とりわけ光圀公の修史は大義を明らかにしています。他の書物も参照すべきです」とありますので、斉昭公の学問の実践をめざしていることが知られます。


弘道館のめざすもの

もう一度「弘道館記」を振り返ってみましょう。館記の構成は江戸時代で前、後半に区切られていますが、後半はいわば現代史です。それは東湖の述義をみれば、明らかです。わが国の歴史の中から国家の特色、すなわち国体を把握しつつ、教育の方針と理念を生み出しているのです。

その中で水戸学の最も重要な要素は「尊王攘夷(そんのうじょうい)」で あり、この言葉は水戸学が案出したものです。これについては次回でふれることとして、ここではそれ以外の理念について述べてみましょう。

後半では現実社会の状況をふまえて、いくつかの理念を表明しています。例えば次のような箇所(かしょ)に注目しましょう。

 「倫(りん)を明らかにし、名(な)を正(ただ)す」は、藤田幽谷も「正名論」で説いており、人倫(じんりん)の根本です。
 「神州(しんしゅう)の道を奉(ほう)じ、西土(せいど)の教えを資(と)り」は、わが国の道を中心としつつも外国の学問を取り入れることです。
 「学問事業、其(そ)の效(こう)を殊(こと)にせず」は、学問と事業(考究した道を実践すること)は、その働きを別のものと考えてはいけないことです。
 「衆思(しゅうし)を集め、群力(ぐんりょく)を宣(す)べ」は、みんなの考えを集め、総ての人の力を伸ばすことです。

これらは、時代を超えて、不変の真理ともいうべきことでしょう。

このように館記をみてきますと、弘道館教育のめざすところが明瞭に読み取れると思われます。