9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和8年4月号

「天子は姓無し」の認識と釈義

所 功 /京都産業大学名誉教授


「万世一系」とは

日本の皇室は万世一系であるということは、現代もよく言われ、これこそ万邦無比の国体(国柄)を示すものとも称されて久しい。

その「一系」とは、一本の糸(帯)のように繫がっていることである。その「血統」(血縁)は、直系を基本としながら傍系も含む。

ちなみに、吉田松陰は安政二年(一八五五)、「成人」する従弟に贈った『士規七則』の中で、「皇朝は万葉一統……君臣一体、忠孝一致、ただわが国をしかりとなす」と表現している。

その血統が幕末の「王政復古論」あたりから特に「万世一系」と言われているのは、「皇統」(天皇の血統)が確かに繋がり長らく続いてきたことを、記紀以下の史料により裏付けられる格別な存在だからである。換言すれば、日本の「皇統」には、途中で断絶して他の王侯などと交替する「革命」(天命の改易)が一度もなかったのである。

この「万世一系」に関しては、島善高氏「万世一系の天皇について」(初出平成四年。のち同氏著『律令制から立憲制へ』同二十一年。成文堂所収)が参考になる。また私も、「〝万世一系の天皇〟とは何か」(初出平成十年。のち『皇室典範と女性宮家』同二十四年。勉誠出版)で論じたことがある。

ところが、近年の皇室論議では、一系の天皇(皇統)にも一般臣民の氏姓があるかのように錯覚し、いわゆる男系・女系の是非を「氏」の論理や「家」の論理で説明する傾向が見られる。

それゆえ、あらためて天皇(天子)には姓(氏姓)が無いという認識の沿革を辿り、主要な識者たちの見解を例示させて頂こう。


「革命中華」流の「百王一姓」観

古代から天下を統治する「中華」と自負し、周辺の国々を「夷狄(いてき)」と見下してきた中国では、王家自身も「姓氏」を自称していた。従って、王朝が交替すれば姓氏も易(かわ)る。漢と蜀は劉、魏は曹、呉は孫、晋は司馬、隋は楊、唐は李、宋は趙、明は朱、清は愛新覚羅などである。

そのため彼らは「東夷」(東方の夷人)の「倭」(日本)を治める「王」も「姓」を称していると思い込み、それが続いているものとみなしていた。

たとえば、『隋書』(『北史』にも)の「東夷伝」倭国条は、遣隋使の持参した国書をみて、「開皇二十年(六〇〇)、倭王姓は阿毎、字は多利思比孤(たりしひこ)…」と記している。この「阿毎」(あま・あめ)は、記紀の神名などに多い「天」(あめ・あま)を「姓」と誤認したものとみられる。

ただ、『宋史』の「日本伝」によれば、入宋僧奝然(ちょうねん)が持参した『王年代記』を献上すると、「太宗( 趙炅(ちょうけい))、奝然を召見す…其(日本)の国王は一姓伝継にして、臣下も皆官を世々にするを聞き……これけだし古の道なり」と感嘆している。

これを承けて、江戸後期の儒学者たちも、同様の見解を示している。たとえば幕府の林述斎(大学頭)は、文化元年(一八〇四)、『全唐詩逸』の序文に、革命の多い中国と異なり、「我が東方(日本)は…百王一姓、日月悠久…事皆、古を師とす」と論じ、また豊後出身の広瀬旭荘(きょくそう)(淡窓の弟)も、安政年間の『九柱草堂随筆』に、「我邦の百王一姓、万国より尊し」と評している。


松下見林・大窪詩仏らの「天子無姓」論

この「百王一姓」観よりも本質的に重要な認識は、「天子無姓」論である。その一例は、既に松下見林(一六三七~一七〇三)の『異称日本伝』に見える。

見林は、大坂の医家に生まれ、和漢の学を修めて、墳墓研究の先駆け『前王廟陵記』を著すと共に、三十年余りかけて元禄元年(一六八八)、『異称日本伝』全十五冊を仕上げた。

その巻十一で、『北史』(『隋書』とほぼ同文)の「倭国伝」を引いた後の「今按」に、「倭王の姓阿毎とは無稽の言なり。蓋(けだ)し天の訓の阿毎、我が天神の初主、天御中主尊(あめのなかぬしのみこと)と号す。異邦人その意を暁(し)らず。阿毎を以て姓と為す」と批判し、「本朝の風、天子は姓無し。天子の孫子(孫とその子孫。五世まで)は王氏を称す。…凡そ姓氏は人臣の例と為すなり」と記し、天子(天皇)には姓が無く、姓と氏は臣民クラスで用いるものと認識している。

いま一つは、山崎闇斎の門流に属する仙台出身の留守友信(一七〇五~一七六五)の『称呼弁正』(『日本随筆集成』三、所収)である。この中で次のごとく論じている(河合一樹氏の『求真』二二号、平成二十八年参照)。

「我が邦…天子は姓無し。何となれば、則ち開闢(かいびゃく)以来、王室一統…革命の事有る無し。公卿以下、其の族を称し、或は其の姓を兼称す…」

もう一つは、大久保詩仏(しぶつ)(一七六七~一八三七)の漢詩「皇統歌」である。詩仏は、常陸の医家に生まれ、江戸で儒学を修め、漢詩と書画に秀でていた。

この詩仏が天保元年(一八三八)に仕上げた『詩聖堂詩集』三編の巻一所収「皇統歌」に、「天地開闢(かいびゃく)より来(このかた)/大統長く相伝ふ/天子は姓氏無し。/…/天皇は日月の如く/万古変遷無し。/…周の徳盛んなりとも/…/嬴(えい)(秦の姓)となり劉(漢の姓)となる後/今に至り已(すで)に二千(年)/その間、幾姓氏/相代り互ひに忽焉(こつえん)(消滅)たり。/いかんぞ日出づる国/相伝へて自ら綿々たり」と詠んでいる。

ここでも天子(天皇)には姓氏が無く、万古にわたり変わり無いのに対して、中国では周代から二千年ほどの間に何度も姓氏(王朝)が替わってきた、という相違を明瞭に識別している。


『大日本史』「氏族志」などの釈義

このような「天子(皇統)は姓(姓氏)無し」という認識は、おそらく近世以前から自明の事実とみなされてきたにちがいない。ただ、近世に至って、それを松下見林や大窪詩仏のごとく明確に自覚し表現したことは、あらためて評価すべきことであろう。しかも、 それが、近代に受け継がれている。

たとえば、水戸藩の『大日本史』編纂は、周知のごとく徳川光圀の史局開設明暦三年(一六五七)から明治三十九年(一九〇六)完成までに二世紀半を要した。

その最後に手がけられた部門別「志」の「氏族志」は、既存の草稿を基に、栗田寛東京大学教授により同十七年(一八八四)に仕上げられた。この冒頭に「それ開闢以降、天子は姓無し、万世一統なり。…天子すなはち事に因り氏姓を以て命ず(賜る)。子孫相承けてその世職を叙す」と記される。

ここにいう「天子無姓」の表現は、前述の松下見林や大窪詩仏と関連があるのか、栗田寛あたりが独自に考案したのか。いずれにせよ、こうした認識は、誇りを持って語り継がれてきたことである。

たとえば、昭和四年(一九二九)、昭和天皇(二十八歳)が陸軍特別大演習で水戸の「西山荘」へ行幸の時、栗田寛の門弟の清水正健(七十三歳)が「大日本史編修に就て」と題する御進講用の準備草稿(茨城県編刊『御前講演集』所収)の中で、次のごとく語っている。

「皇統は、唯一無二にして比倫匹儔(ひっちゅう)(類例)あること無ければ、殊更に氏姓を設けて、他に区別する要を見ず。是れ即ち殊域の王家に比して、唯我独り尊き所以なり。(氏族志)開巻第一の叙論に、天子無レ姓と特書したるは、是れ其の故なりと知らるべし」

ちなみに、それから半世紀近く経た昭和五十二年(一九七七)八月、昭和天皇は宮内記者に対して、同二十一年の元旦詔書に「五箇条の御誓文」を全文引用された意図を述べられると共に、「日本の皇室は、昔から国民の信頼によって万世一系を保っていた」と語っておられる。


道徳学・国体学者たちの「天子無姓」釈義

このような万世一系(一統)の天皇(皇統)に「氏姓」が無いという認識は、多くの先賢が説いてきた。

たとえば、黒板勝美東京帝国大学教授(一八七四~一九四六)は、『国体新論』(初版大正十四年、博文館。のち少し修訂して『虚心文集』所収、昭和十四年)で、「万世一系」の本質について「我が皇室に氏の御名称がないのは、実にその絶対唯一の御家であらせらるることを証明するものである」と説明している。ここには、紙幅の都合で昭和年代に限り、主要な事例を紹介しよう(敬称省略)。

その一。昭和八年(一九三三)四月、深作安文東京帝国大学教授(一八七四~一九六二)は『現代道徳要説』(光文社、昭和八年四月)で、「我が国に於て、天皇に御姓が御有りにならないのは、御姓の必要が御有りにならないからである。それを天子無姓と申すのである」と説明している。

その二。平泉澄東京帝国大学教授(一八九五~一九八四)は、既に『天兵に敵なし』(至文堂、昭和十八年)で根本通明博士の説く「天子一姓」を厳密に「天子無姓といふべきである」と指摘している。また「皇学提要」(皇學館大学出版部『皇学論集』所収、昭和四十四年。錦正社『平泉澄博士神道論抄』再録、平成二十六年)に、山鹿素行の『中朝事実』を引き、「天皇の御位は…一系に相続せられて万世に伝へられ、絶えて革命を許さない。ここに我が国体の特質が存する」と述べている。

ちなみに、文部省国定教科書『初等科修身』三の「教師用」指導書(昭和十八年六月)では、「わが皇室こそは国家成立の本源である。従つて、肇国の始から絶対に尊厳な唯一無二の御家として姓氏を有せられない」と的確に記した上で、大窪詩仏の「皇統歌」を引いている。また、安岡正篤全国師友協会会長(一八九八~一九八三)は、『名詩選釈』(明德出版社、昭和三十年)に「皇統歌」を収め、「この詩は…皇室に姓のないこと、易姓革命のかつて行われなかったことなど」を「端的に把握して」いると評し、さらに、里見岸雄日本国体学会会長(一八九七~一九七四)も、「大窪詩仏に就て」(『国体文化』昭和四十七年二月号)で「天子無姓の意義を展開し、…万古無革命の信念を吐露している」と評している。

その三。津田左右吉博士(一八七三~一九六一)は、戦前から記紀を厳しく批判してきたが、戦後まもなく、皇室を擁護する「建国の事情と万世一系の思想」(『世界』昭和二十一年四月号。のち『日本上代史の研究』所収)を公表し、国史上「直系の皇統が絶へたといふやうなこと」は無く…あらゆる国民が「無窮に継続すると同じく、(皇室は)その国民と共に万世一系なのである」と論じている。

その四。徳富蘇峰(一八六三~一九五七)は、『国史より観たる皇室』(昭和二十一年三月稿、同二十八年初版。令和七年新版、藤原書店)で、直接言及していないが、「支那に無くして、日本に存在するもの…は万世一系の皇室である」と説いている。

その五。和歌森太郎東京教育大学教授(一九一三~一九七七)は、「日本における主権概念の変遷」(『日本歴史』昭和二十一年七月号。のち同氏著作集七に再録、昭和五十六年)で、「皇室が姓をもたれなかつたことは、姓が私の意識を支へるものなることを思へば、早くから無私の立場を自覚されたことを示す」と論じている。

その六。葦津珍彦(うずひこ)神社新報主筆(一九〇九~一九九二)は、『天皇・神道・憲法』(神社新報社、昭和二十九年)で、「日本皇室の万世一系とは、男系子孫一系の意味である」と断じながら、「現行憲法は…女系も亦(また)世襲とすることを得べく…合憲的に一片の法律(皇室典範)の改変手続を以て行ひ得ることとなつてゐる」と論じている。

その七。坂本太郎東京大学名誉教授(一九〇一~一九八七)は、「日本歴史の特性」(昭和四十二年、国立教育会館、教養講座5。講談社学術文庫再録、同六十一年)で、「王朝が変われば…前の王朝の氏は何某(なにがし)、新しい王朝の氏は何某と名のると思うのですが…天皇には氏がないのです。これも王朝が変ったという仮説の反証になる」と述べている。

なお、平成に入ってからであるが、田中卓皇學館大学名誉教授(一九二三~二〇一八)も、『祖国再建』(下、平成十八年、青々企画。初出『諸君!』同年三月号)で、「日本の皇室にはもともと『氏』がない…古来、皇室は他氏族と区別する必要がなく…断然隔絶されていた」と論じている。

また、最近でも、遠藤正敬早稲田大学研究員は、『天皇と戸籍』(筑摩選書、令和元年)において「天皇家にはなぜ『氏』『姓』がないのか?」で、「すべての姓(家)をたばねる唯一無二の『宗室』としての天皇家は『公』を表徴するものであるからこそ、氏姓を必要としないのである」と論じている。


以上、「天子無姓」の史実を明確に認識して、皇室が「万世一系(一統)」で継承されてきており、中国王朝のような易姓革命が無いことこそ、我が「国体」の特質と自覚し表現した先賢の事例を紹介してきた。

いま重要なことは、天子(皇室)のみが古来臣民を超越した格別な存在ゆえに俗姓を必要とされず、無姓原則により万世一系で今に続いてゐるという史実の再認識であらう。

尚、資料の収集に、久禮旦雄・山本直人・渡辺剛の三氏などから協力をえたことに感謝している。