9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和8年1月号

『実録』に観る香淳皇后の御歌(抄)

所 功/京都産業大学名誉教授


香淳皇后(明治三十六年~平成十二年)は、久邇宮(くにのみ)家で邦彦王の長女として生まれられた。十五歳近くで皇太子妃に選ばれたが、ご成婚は五年後の大正十三年(一九二四)正月である。その間に宮邸内の御学問所で和歌などの特別教育を受けられた。

やがて大正十四年と翌年の歌御会始(うたごかいはじめ)(今の歌会始)で「御題」に即した御歌が披露され、昭和に入つてからも数多くの御歌を詠んでおられる。

そのうち、昭和四十六年(一九七一)までの御歌は、当時の歌会始選者だった木俣修博士(明治三十九年~昭和五十八年)編輯の『あけぼの集』(読売新聞社刊、同四十九年)に、二百三十二首収録されている(国立国会図書館デジタルコレクションで複写可能)。

しかし、その大半は詠まれた年を詞書に記すのみで月日が判らない。しかも、既に戦前から公表されている御歌が、少なからず収録されていない。

ところが、最近(令和七年十月九日)から宮内庁ホームページに公開された同庁編の『香淳皇后実録』(全十二巻)を通覧すると、①年月日順の綱文(記事)に関係のある御歌が引載されている。また、②その中には木俣氏編輯本に見えない御歌も、説明記事と共に知ることができる。さらに、③当然ながら、昭和五十年以降の御歌は、この実録の随所に引かれている。

そこで、ここには、紙幅の都合で①を除くが、②と③を抄出して、参考に供する。

読み易くするため、御歌にない濁点を補い、平仮名書きの語に漢字を充て、右傍に記す。また上に巻数を漢数字、頁数を算用数字で示し、年次の( )内に満年齢を入れる。さらに抄出記事は一部行詰めする。


一 木俣修氏編輯本に未収の御歌
三203 昭和十二年(34歳)五月二十六日条。済生会の創立二十五周年記念式に際し、「同会の事業並びに困窮者の身上を思し召され、次の御歌を下賜される。
  年月の重なるまゝにいた( 労)つきのい( 癒)えゆくたみ( 民)のますぞうれしき」
三216 同年九月二十一日条「今般、支那事変に際し、出征及び応召の軍人遺族並びに家族の心情を深く思し召され、次の御歌を下賜された。
  なぐさめむことの葉もがなたゝかひのには( 庭)をしのびてす( 過)ぐすやからを」
三228 同年十一月三十日条「支那事変において戦死又は殉職の陸海軍将校以下及び関東局並びに外務省警察官吏に対し、思召しをもって菓子と次の御歌を下賜される。……
  やすらかにねむれとぞおもふきみのためいのちささげしますらをのとも」
三282 昭和十三年(35歳)十月三日条「皇后宮大夫を通じて内閣総理大臣近衛文麿に、傷痍将兵に対する次の御歌を御伝達になる。
  あめつちの神もも( 護)りませいたつきにいたで( 痛手)になやむますらをの身を」
四94~95 昭和十六年(38歳)九月八日条によれば、「皇后宮職において作成の『皇后宮御歌にこたへ奉る歌』……「奉答詠進歌二千五百八十三首が収められる。」その三冊本の冒頭に、上記の三首の御歌が掲載されている。」
四298 昭和十九年(41歳)十二月二十三日条「国民校の学童疎開が実施されるに当たり……疎開児童の心情を思し召され、皇太子(11歳)の誕生日に合わせて、集団学童疎開者及び教職員等のため……次の御歌を下賜される。/疎開児童のうへを思ひて
  つぎの世をせおふ( 背負)べき身ぞたくましくたゞしくのびよさと( 里)にうつりて」
五73 昭和二十二年(44歳)三月二十八日条「宮内省御用掛加藤虎之亮(68歳「漢文」進講者)に対して、大色紙に親筆にてお認(したた)めの御歌を特別の思召しをもって下賜される。
   加藤虎之亮の詩にこたへて感謝の心をよめるをしへ( 教)たれし君ぞたふとしはたちよりいつとせ近きながき日々によす 
※「はたちよりいつとせ」は二十五年の意とみられる。
   教うけてなほもきはめむながき日をひじり( 聖)のみちにしたしみしかど」
五89 同年六月六日条「戦災引揚孤児救済資金に充てる目的をもって、日本女流書道協会主催・読売新聞社後援の『愛の辻揮毫』……開催につき、次の御歌三首を同協会に下賜される。
  あたゝかくはぐゝ( 育)まゝほしあはれにも世にめぐまれぬみなし( 孤児)子たちを
父母のたま( 魂)は汝(な)が身にやどるなり心なほくものび( 伸)よみなし子
  我もまた手をさしのべてはぐくまむみより( 身寄)すくなきひ(引揚)きあげの子を」
五161 昭和二十三年(45歳)七月二十七日条「家庭雑誌『婦人の光』の創刊に当たり……次の御歌をお示しになり、掲載をお許しになる。
  をみな( 女)らのな( 直)ほくやさしきこころもてすさ( 荒)める世をもなご( 和)めたらなむ」
五373 昭和二十七年(49歳)十一月十日条「立太子の礼及び皇太子成年式が行われる。……皇太子(19歳)に次の御歌を賜う。
  みそのふ( 御園生)のまがき( 籬)がもとの菊の花さかり久しく咲きつゞけなむ」
六166 昭和三十年(52歳)十月三十日条「神奈川県(横浜市)において開催される第十回国民体育秋季大会に御臨場……。
「三ツ沢国体開会式場」と題し、次の御歌がある。
  ちぎれとびて柄のみとなりし日の丸をなほふりかざす学び子のとも」
七43 昭和三十四年(56歳)十月二十一日条「更生保護制度施行十周年記念全国大会に御臨席……。
関係者に次の御歌を賜う。
 きず( 傷)つきし心の子らをいだき( 抱)よする母ともなりていつく( 慈)しまなむ」
七242 昭和三十七年(59歳)十月二十一日条「第十七回国民体育大会秋季大会開催式に御臨場……。
この大会に寄せて次の御歌がある。
  日の丸の旗とならびて国体旗空たかくなびく岡山の秋」
七267 昭和三十八年(60歳)三月六日条「この日、還暦を迎へられた心境をお詠みになった次の御歌を……、報道機関を通じ披露される。還暦をむかへて
  いたらざることのみ多き年月を送りぬさらにあゆみはじめむ
  父よりも長き年月すごしきぬ心あらたに君につかへむ」
※父は久邇宮邦彦王(明治四年~昭和六年、55歳)
七310 同年十月二十六日条「岡山大学附属病院において池田厚子(第四皇女、32歳)を見舞はれ……次の御歌がある。
  いまひといき心づよくとさと( 諭)しつつ針のあと多き腕さす(摩) りやる
  ひとときは涙にぬれしあこ( 吾子)の顔やがて笑顔にかはりゆくかな」
八57 昭和三十九年(61歳)十一月十一日条「財団法人国際身体障害者スポーツ大会運営委員会に……
次の御歌をお詠みになる。/パラリンピックを見て
  楽しみのなきあけくれ( 明暮)によろこびの力づよくもよみが(甦)へるらし」
八206 昭和四十二年(64歳)四月二日条「吹上御所の庭に飛来したヤツガシラ( 戴勝)観察に寄せた皇后の御歌は次のとおり。(戴勝は大陸から稀に飛来する小鳥)
  鳥ずきの宮もはせつけ双眼鏡手にして鳥をさがしもとめつ
  冠羽立(かんむりばね)てつおろしついくたびか眼鏡のうちにとらへしといふ
なお、ヤツガシラは、五日に皇后の前より姿を消す。
ヤツガシラとの別れに寄せた御歌は次のとおり。
  四日にして見うしなひけむやつがしらいづこの里にとびたちにけむ
  ここにして目のゆくかぎりさが( 探)せどもつひに見いでずわがやつがしら
  みそのにははやぶさ( 隼)もいればいかならむやつがしらのうへをわれは気づかふ
  ながゐ( 長居)せずときけどきけば聞くほどこの庭に四日もゐたりしことのうれしき
五月二十三日には、ヤツガシラを発見された地に札を立てられる。
 みいでたる桜のもとに札たててひとりしのびぬやつがしらのうへ
……ヤツガシラ飛来の後、翌四十三年にかけて、皇后は……四十首の御歌を添えた絵巻〔彩色本及び完成版である金泥本〕を制作される。この他、御絵の模様を染め抜いた和服・帯を仕立てられ/寄せた御歌は次のとおり。
  紙にゑが( 描)きはたまたきぬ( 布)に染めもしてやつがしらのすがたをのちにつたへむ」
※ 『あけぼの集』には「目にのこる影をよすがにやつがしらの姿をきぬのすそ( 裾)にかかまし」を収録。

以上の二十七首は、『あけぼの集』に未収であるが、今回『実録』に引用されて明らか になった香淳皇后の御歌である。これらを木俣氏がなぜ採用されなかったのか判らない。 けれども、皇后の公私両面にわたる実像を窺うことのできる貴重な資料だと思われる。 とりわけ昭和の戦前・戦中期には、「大元帥」として日夜苦労される天皇を身内で支えら れるのみならず、戦死者の遺家族や疎開児童などを慰め励まされるため、懸命に心を尽くしておられる。

また、皇太子妃の時期から、和文学だけでなく漢文学の受講も続けられた。殊に加藤虎 之亮博士から大正十二年より昭和三十二年まで『孟子』をテキストにして「ひじりのみち」を熱心に学んでおられる。

さらに、還暦を過ぎて穏やかな日々を皇居の吹上御所で送られる所へ飛来した「ヤツガシラ」に特別な興味をもたれ、御歌と共に「絵巻」などまで作っておられたことが知られる。


二 『あけぼの集』以後の御歌
九230 昭和四十七年(69歳)一月十四日条「歌会始の儀……お題は「山」/皇后宮御歌……
  紺碧(こんぺき)の海のかなたにそびえ( 聳)つつけさ見る富士は雪ましろなり」
九299 昭和四十八年(70歳)一月十二日条「歌会始の儀……お題は「子ども」/皇后宮……
  われもまた昔にかへる心地してをさな( 幼)き子らとともにあそびぬ」
九340 同年十月十二日条「千葉県において開催される第二十八回国民体育大会秋季大会に……鯛ノ浦を御訪問……次の御歌が翌年一月一日に発表される。
  波の間にすがたを見せつつ鯛のむれふなべり( 舷)近くあまた寄りくる」
十4 昭和四十九年(71歳)一月十日条「歌会始の儀……お題は「朝」/皇后宮御歌……
  くれなゐのよこぐものへに光さしつか( 束)のまにして伊豆の朝明(あ)く」
十62 昭和五十年(72歳)一月十日条「歌会始の儀……お題は「祭り」/皇后宮御歌
  星かげのかがやく空の朝まだき( 未明)君はいでます歳旦祭に」
十128 昭和五十一年(73歳)一月九日条「歌会始の儀……お題は「坂」/皇后宮御歌
  もちつつじの花咲く坂をくだりつつかなた( 彼方)に琵琶の湖(うみ)を見放(さ)けぬ」
十182 昭和五十二年(74歳)一月十四日条「歌会始の儀……お題は「海」/皇后宮御歌
  鹿児島の海こえゆけば船のさき天つひかりに波はかがやく」
十228 昭和五十三年(75歳)一月十二日条「歌会始の儀……お題は「母」/皇后宮御歌
  今もなほ母のいまさばいかばかりよろこびまさむうまご( 孫)らをみて ※ 皇后の生母は島津家出身の久邇宮邦彦王妃倶子(ちかこ)(明治十二年生まれ~昭和三十一年歿)
十270 昭和五十四年(76歳)一月十二日条「歌会始の儀……お題は「丘」/皇后宮御歌
  海ぞひの丘のかなたの空はれて利島もけふは見えわたるなり」(※利島は伊豆半島の小島)
十309 同年十二月五日条。三日より奈良地方に両陛下行幸啓され、この日、中宮寺を御覧になり、「山茶花を題材として……次の御歌をお詠みになる。
  中宮寺のついぢ( 築地)の内にしづもりてさざんくわ( 山茶花)の花きよらかに咲く」
十一3 昭和五十五年(77歳)一月十日条「歌会始の儀……お題は「桜」/皇后宮御歌
  ふだんざくらおほしま( 大島)ざくらも咲きそめて光あまねきけふのみそのふ( 御園生)
十一9 同年三月十九日条「須崎御用邸にて御覧になった水仙を題材として……次の御歌をお詠みになる。
  水仙のかをりゆたかにただよひて海辺の丘ははや( 早)も春めく」
十一37 同年十一月六日条「明治神宮鎮座六十年祭につき、天皇(79歳)と共に、御参拝……に当たり、昭憲皇太后をお偲びになり、次の御歌をお詠みになる。
  世ひろく蚕飼(こがい)のわざをすす( 勧)めむとつと( 努)めましけるみ心を思ふ」
十一46 昭和五十六年(78歳)一月十三日条「歌会始の儀……お題は「音」/皇后宮御歌
  朝日岳の裾(すそ)にひろごる笹原をさわさわわたる風の音(ね)をきく」(※朝日岳は那須連山の一峯)
十一74 同年五月十日条「今夏の那須御用邸御滞在について……次の御歌をお詠みになる。
  しのぎよき那須の成宮(なりみや)夏ごとにあつさのがれて幾年もきぬ」(※「成宮」は御用邸)
十一78 同年十月十二日条。前日から天皇(80歳)と共に滋賀県に行幸啓、琵琶湖ホテルのギャラリーで杉浦重剛(大正七年良子(ながこ)女王の修身科を嘱託される)の遺墨などを展示した「杉浦重剛展」を御覧になる。
十四日……御静養……次の歌をお詠みになる。
  秋の日は比叡のかなたへ落ちゆきて琵琶湖大橋に灯(ひ)のともる見ゆ
十一91 昭和五十七年(79歳)一月十三日条「歌会始の儀……お題は「橋」/皇后宮御歌 お出ましにならず(以後もご欠席)
  鴨川のほとりにいでてながめやる荒神橋(こうじんばし)はなつかしきかも」
※ 荒神橋は京都御苑東の鴨川に架かる橋。その河原町通りに久邇宮邸があった(現在「京都くに荘」)。
十一124 昭和五十八年(80歳)一月十四日条「歌会始の儀……お題は「島」/皇后宮御歌
  島人のたづき( 生計)支へし黄八丈(きはちじょう)の染めの草木をけふ見つるかな」
※ これは、前年十一月十五日に八丈島へ行幸啓された際、「昭和二十七年五月に皇后
( 貞明)が下賜された小石丸〔紅葉山御養蚕所の蚕〕から黄八丈が二反織られたこと」を聞かれての感慨である(十一116参照)。
十一160 昭和五十九年(81歳)一月十二日条「歌会始の儀……お題は「緑」/皇后宮御歌
  やはらかき日ざし透(すけ)りて若桂みどりゆたかに中壺に満つ」(※「中壺」は中庭)
十一192 昭和六十年(82歳)一月十日条「歌会始の儀……お題は「旅」/皇后宮御歌
  つくし( 筑紫)なる旅路の空に新月のかかるを見たり冴(さ)えわたりつつ」
十一218 昭和六十一年(83歳)一月十日条「歌会始の儀……お題は「水」/皇后宮御歌
  さしのべて手にうくる水のつめたきに心やすらふ泉のほとり」
十一242 昭和六十二年(84歳)一月十三日条「歌会始の儀……お題は「木」/皇后宮御歌
  あたたかき光さしそふ伊豆の丘木々の梢(こずえ)は萌(も)えそめにけり」

以上が『あけぼの集』既収分(昭和四十六年まで)以後の、今回『実録』に引載された御歌二十二首である。これ以前に較べればやはり少なくなっているが、それは高齢化に伴う身心不如意の進行によるものと想われる。昭和天皇の最晩年以降は一首もみられない。

香淳皇后は、昭和五十年(72歳)九月、ご健康に少し不安も感じられたが、天皇陛下(74歳)のご訪米に同伴され、その上品な笑顔が多様なアメリカ人を魅了し、両国の親善に多大な貢献をされた。

しかし、二年後(74歳)の七月十七日、那須の御用邸で「腰を痛められ」て、まもな くコルセットを着けても、段々歩行が難しくなられた。ただ、吹上御所や御用邸では、長らく修練して来られた日本画を描き続けられ、毎秋の宮内庁の総合文化祭には、同六十年(82歳)まで特別出品されている(宮内庁皇太后宮職編『飾芳集』増訂版、朝日新聞社、平成元年。三の丸尚蔵館編『香淳皇后の御絵と画伯たち』菊葉文化会刊、同十九年など参 照)。

やがて、天皇の崩御によりご長男の皇太子(55歳)が践祚され、「平成」の御世となっ てからも、従来の吹上御所を皇太后の大宮御所として静養を続けられたが、平成十二年(二〇〇〇)六月十六日、満九十七歳三ヶ月余の天寿を全うされた(十二118参照)。

その翌月十日、平成の天皇陛下より、「長き歳月、昭和天皇をお助けになり、温かく香(かぐわ)しくましました在りし日の御姿」を偲び、「追号して香淳皇后と申し上げます」と の誄(るい)(弔辞)が奉(たてまつ)られている(十二129参照)。「香淳」(出典は奈良時代の漢詩集『懐風藻』)。