『日本』令和8年1月号

正月号巻頭言「推古天皇の詔」解説>

推古天皇朝は「三宝興隆」をもつて政治文化の基調とし、大陸文明の徹底的理解に努めた時代であつた。『日本書紀』の同時代の内容は、それらの関係記事で満たされてゐる。

そのなかで巻頭に掲げた「神祇祭祀」の詔は、異例である。注目すべきは、このあとすぐ展開された対隋外交である。遣隋使を派遣し、倭の五王時代に南朝に対して行つた朝貢の礼を一いって擲き し、自主対等外交を展開。「日出い づる処ところの天子、書を日没する処の天子に致す、恙つつが無きや」(『隋書』倭国伝)、「東の天皇、敬つつしみて西の皇帝に白もうす」(『日本書紀』)の国書は、対等といふより自らを重んずる堂々たる態度である。三百年振りに大陸を統一した大帝国隋に対して、建国以来の我が国の歴史的精神の自覚なくして、これだけの気魄に燃えた外交は出来まい。高句麗の処理に手を焼く弱味を利用した外交策の巧みだけでは、説明できない。

聖徳太子が中心となつて編纂された国史は、この詔が発せられた時には既に進捗してゐたのではないか。その完成は、太子薨去(こうきょ)の直前まで続けられた最後の御事業であつた。 (清水 潔)