9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和6年2月号

日露戦争について考える― 乃木大将とステッセル将軍の会見 ―

 夏秋正文  /佐賀大学医学部 元助教授


日本(大日本帝国)とロシア(ロシア帝国)との戦争は、明治三十七年(一九〇四)二月十日に戦端が開かれています。戦争勃発の原因は、当時の複雑な国際情勢が背景にありますが、満洲や朝鮮などの南への勢力拡大を目指すロシアの立場と、それを阻止対抗する日本の立場が相反する状況にありました。

日本は清国が健全な独立国家であれば、清国に存在する内政外交問題を心配する必要もありません。だが、アヘン戦争後の清国の政情は不安定であり、満洲を統治すべき立場にある清国の国内事情は混乱していました。

一方ロシアは清国の弱みを突きながら満洲への侵入を虎視眈と狙っていました。

時あたかも明治三十三年、北清にて民間の宗教団体である義和団の乱が発生し、清朝は外国文明を拒否する義和団と歩調を合わせたため、清朝と欧米との間に亀裂が生じました。満洲や支那を分割しようとする欧米と清朝との間で戦闘状態となり、北清事変へと展開し清国の混乱が進みました。

当時、満洲に鉄道の敷設権を有していたロシアは、鉄道の敷設権を侵害されることを理由に満洲に侵入し、満洲を植民地化しようとロシア軍を駐留させました。欧米諸国はロシアが満洲を占拠することに危機感を持ち、撤退するよう強く勧告しましたが、ロシアはあいまいな態度をとり、満洲の占拠を続けました。度重なる勧告にもかかわらずロシアは満洲に居座り、朝鮮への権益などへも拡張するため、日本は憤然とその横暴に対抗し、ロシアとの一戦もやむを得ないとする国論に傾きました。

また英国も、ロシアの侵攻に対抗するため、日本を応援し日英同盟が締結されていました。当時のロシアの陸軍とバルチック艦隊は世界最強と言われており、国際社会は日本の敗戦を予測していました。

一方、日本は朝鮮半島が侵攻されるとの危機感が強く、それを未然に防ぐため日露戦争が起きました。

日露戦争の勝敗を左右する重要な第一関門は、難攻不落といわれていたロシアの有する旅順の要塞を、日本軍が陥落させうるかどうかにありました。旅順攻略は難攻を極め、日本軍、ロシア軍ともに戦死者や犠牲者が多くでました。旅順要塞の攻略の最終目標は、旅順港をすべて観測できる二〇三高地の占領でした。

海岸線より攻略を続け三度の失敗を経験した後、直接陸上から二〇三高地を占領するという乃木希典(のぎまれすけ)大将の戦略に変わりました。二〇三高地を占拠できれば、旅順港を一望できる利点がありました。その任務にあたり、激戦の末多数の戦死者を出しましたが、二〇三高地占領と旅順要塞攻略の最終目的を達成することができました。

これを受けて、ロシア軍旅順要塞司令官のステッセル将軍は降伏を決意しました。要塞陥落の五日後、乃木大将と敵将軍ステッセルは、旅順北西の水師営において停戦のための会見を行いました。これが明治三十八年一月五日のこと、唱歌にもなりました有名な「水師営の会見」です。

この会見に先立ち、参謀総長の山県有朋は、敵軍のステッセル将軍の名誉を傷つけることがないよう、乃木大将に電報を送りました。

その打電の内容は、「陛下(明治天皇)には将官ステッセルが祖国の為め尽くせし苦節を嘉(よ)みし玉(だま)ひ、武士の名譽(めいよ)を保たしむべきことを望ませらる」との伝言でした。

乃木大将は、この聖旨を忠実に履行し、勝者である軍司令官としてではなく、一個人として会見にのぞみ、ステッセルと随員には勲章の佩用(はいよう)と帯刀を許しました。

通訳を務めた第三軍参謀の津野田是重によれば、「双方隔意なき態度を以て雑談」し、次のようなやり取りが交わされました。


ステッセル司令官「閣下は当方面の戦場において、最愛の二子を喪(うしな)われたとのことですが、まことに御同情に堪えません」

乃木将軍「私は二子が武門の家に生まれ、軍人としてともに死所をえたことを喜びます。彼らも満足して瞑目(めいもく)しているでしょう」

ステッセル司令官「閣下は人生の最大幸福を犠牲にして、かえって満足しておられる。私などの遠く及ぶところではありません」

乃木将軍「ところで貴軍の戦死者の墓が散在しているようですが、できることなら一か所に集め、墓標を立てて氏名などを記しておきましょうか」

ステッセル司令官「閣下は戦死者のことまで情けをかけてくれるのですか、お礼のことばもありません」


 以上のような両将軍の会見は、乃木将軍の武士道精神とステッセル将軍の騎士道精神が相交わり肝胆相照らす情景が彷彿(ほうふつ)とされます。

乃木将軍のステッセル将軍をいたわる友情は、その後も継続しています。即ち、ステッセル将軍はロシアの軍法会議で旅順陥落の責任を問われ、銃殺刑を言い渡されますが、それを知った乃木将軍はロシア皇帝に助命の嘆願書を送り、またヨーロッパの新聞にステッセル将軍の勇敢な戦いを投稿し、世論の喚起を行っています。

そのことが功を奏し、ステッセル将軍はシベリア流刑に減刑されました。さらには妻子の生活が困窮しないように、匿名で送金を続けました。

このように敗軍の敵将の名誉をいたわる精神は、明治の精神であり、日本の武士道の鑑(かがみ)として、後世に語り継がれると思います。

乃木希典の名言
○ 口を結べ。口を開いて居るような人間は心にもしまりがない。
○ 武士道とは、身を殺して仁をなすものである。
○ 人を教ゆるに、行を以てし、言を以てせず、事を以てせず。
○ 決して贅沢をするな。贅沢ほど人を馬鹿にするものはない。
○ 勉強忍耐は、才力智徳の種子なり。
○ 恥を知れ、道に外れた事をして恥を知らないものは禽獣に劣る。
○ 武士道は言葉ではない。
○ うつし世を 神去りましし 大君の みあとしたいて 我はゆくなり。
○ 健康の時は無理をできるよう体を鍛錬せよ、けれどもいったん病気になったら医者のいうことをよく聞け。
  インターネットサイト「LIVE THE WAY(心に響く言葉)」より引用