『日本』令和6年正月号

正月号巻頭言 『平泉澄先生の「母」』 解説

平泉先生が昭和五十九年(一九八四)二月十八日、数へ九十歳で長逝されてから満四十年になる。この先生に大きな影響を与へられた方は、同二十年の敗戦間際に、七十二歳で亡くなつた御母堂とみられる。

先生は母上(貞てい様)のことを、心に染し みる名文で書かれてゐる。その一つが前掲の「母」(初出『日本』昭和三十三年六月号)である。この中で外祖父の島田将恕(勝山藩士、のち大野治安裁判所長)が五十歳で急逝されたこともあつて、長女の貞は非常な「苦難を凌いで来た経験」から、「教戒、時に頗る峻厳」であつたが、実は「心やさしい人」だつたと記されてゐる。

また、『山彦』(初出『週間時事』連載)所収の「母」は、いはゆる〝六十年安保〟の昭和三十五年歳末に出てゐる。この中で「人の子が母に求めるのは……一途に子の為に尽してくれる其の純粋の愛情に外ならぬ」が、その「母を忘れ、母を離れて、人は罪の砂漠をさまよふ」ことになる惨状を憂慮してをられる。

それから六十四年後の今日、家庭・家族の関係は、随所で崩壊の淵に陥つてゐる。そこから脱け出すには、自分の両親、とりわけ「垂た らちね乳根の母」が日常的に示した恩愛を憶ひ起こし感謝する心を取り戻すことならば、誰にもできると思はれる。 (所 功)