『日本』令和5年12月号

十二月号巻頭言 『王政復古の大号令』 解説

幕末混乱の中、将軍徳川慶喜は慶応三年(一八六七)十月十四日に、大政奉還、将軍職辞退を奏上した。

翌日、朝廷はそれを聴許された。

朝廷では、今後の政務について協議しようとし、諸侯に速やかに上京するやう命じられたが、各藩はどうするのが良いか判断が付かず、上京したのは薩摩、安芸、尾張、福井、彦根と、京都近辺の小藩のみであり、新たな政治の在り方を決することは出来なかつた。

そのやうな中、岩倉具視が中心となつて、大軍を上京させた薩摩及び尾張、福井、安芸三藩に長州を加へて京都を守らせ、十二月九日に出されたのが「王政復古の大号令」である。これにより朝廷による新政が確定したのであるが、最も注目すべきは、「諸事神武創業の始めに原き」と述べられてゐることである。これは先に「自今摂関・幕府等廃絶」と述べられたのと相あい俟まつて、天皇親政の大原則を明確化したものである。

この「大号令」に「神武創業」の語が入れられたのは、玉松操みさおの建言によるとされるが、真木和泉守保やす臣おみの「経緯愚説」に見られるやうに、建国の昔への復帰はすでに考へられてゐたのであり、それが反映されたのであつた。 (堀井純二)