9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和5年11月号

  平泉澄博士の米大統領アイゼンハワー宛親書

  久野勝弥 /水戸史学会副会長


最近、平泉澄博士の思想に関する論評を読む機会があつた。その感想を交へて、標題の紹介に入ることにする。

その一つは、加藤典洋氏の『増補 もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』(岩波現代文庫)である。表紙帯に「幕末、戦前、そして現代―劣化の深淵と可能性の淵源をたどる」、「増補」とあるやうに、今回、野口良平氏の解説と共に、「どんなことが起こってもこれだけは……」ほか一遍を加へて刊行してゐる。

片山杜秀氏の『皇国史観』(文春新書)には、同じく表紙帯に「昭和天皇への御進講 平泉澄の挫折」の一文が記されてゐる。更に文末に「皇国の滅ぶ日まで、私どもは皇国史観を探求し続けるのです」とある。これらの記述で、内容はほぼ見当がつくであらう。

続いて『文藝春秋』本年二月号に掲載された保阪正康氏の「両陛下に大本営地下壕をご案内いただく」の一文では、上皇后陛下のお言葉を借りて、平泉博士を批判してゐる印象をうける。

ある席上で「皇宮警察出身の人が『最近、平泉澄先生の本を読んでスカッとした』と大きな声で言ったら、別のテーブルに座っていた岡部(長章、昭和天皇侍従)さんが、その人に向かって注意したことがあったらしい」と書いてゐる。

岡部氏はその人に向かつて、「君、歴史というのはスカッとするためにあるわけではないし、スカッとするために読むものでもない。多くの人が苦労して作り上げてきたのが歴史なんだ」と言はれたことを紹介してゐる。多くの人が苦労して作り上げたとすると、この歴史書は平泉博士の著述を指すのか、歴史一般を指すのか、不明である。

続けて、上皇后陛下の発言「私はあの言葉を聞いた時に岡部さんは実にいいことを言うなと思って、私の方がスカッとしましたよ」を加へられる。すると博士の著書のことになるのではと忖度(そんたく)したくなる。

その後には、博士の履歴を記し、『天兵に敵なし』の一部分を引き、「こうした平泉の教えに影響を受けた陸軍の青年将校が、昭和天皇のご聖断が下っても諦めきれず、終戦間際の八月十四日から十五日にかけて起こしたのが宮城事件だったのである」と断言し、ご聖断の後、博士が暴発することを阻止しようと努力された足跡は一言も記されてゐない。

戦後のことに就いては、松平永芳宮司が靖國神社にA級戦犯を合祀されたことについて、平泉博士の影響があつたやうに記述する。注意すべきことは、話が進む中で、上皇陛下は「何もおっしゃられず、ただ私たちの話をお聞きになっていた」。これは意味がある。皇族方は話の途中で疑問がおありになられても質問されることはない。

ところが、二・二六事件に就いて、保阪氏が、「秩父宮殿下が二・二六事件に関与したとか、青年将校にかつがれる危険性があったという見解は間違いだと思います」と述べると、上皇陛下は「『そうですかあ』と腑に落ちない表情でおっしゃった」。この歴史認識は、疑問 を発せられた上皇陛下の方が正しいと思はれる。

ところで、平泉博士の戦後の事績は、靖國神社のA級戦犯合祀の建言だけだつたのであらうか。


米大統領への親書

戦後の事績に就いては、『寒林年譜』『寒林年譜続録』『悲劇縦走』などに詳述されてゐるので繰り返さないが、具体的な資料が公開されてゐないので不明確な点も数多い。

昭和三十五年、安保騒動の際、平泉博士は米国大統領秘書官ハガチー氏がヘリコプターに宙吊り状態で避難されたことに慨嘆され、アイゼンハワー大統領に直接親書を送り、友好の絆を深めようとされた。『寒林年譜』同年六月の条に、「アイゼンハワー大統領来日に就いて風雲急なり」との記載があるのみで、親書送付のことには触れられてゐないが、『同続録』四十年四月六日の条に、「アイゼンハワー元帥の書状受領」とあるので、送付されたことは確かなことである。

以下全文を紹介する。


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 米国大統領アイゼンハウアー閣下

日米の真の親善提携が世界平和に貢献する所多きを信じ且つ希望する者として、今回の不幸なる事件を慨歎し、今後の成行を憂慮するの餘り、卒然として一書を閣下に捧呈する非礼を御寛恕下さい。

最近に於いて、私共が心中最も爽快を感じ、その為に一段と閣下を敬愛するに至りましたのは、去る六月十日ハガチー氏の来日に当り、一部日本学生の暴挙がありまして、それが閣下の訪日に、いかなる悪影響を及ぼすであらうかと憂慮して居ました際に、間、髪を入れずして、ワシントンより閣下の声明が発せられ、かかる暴挙に累せらるる事なく、必ず日本訪問を決行する旨の公表せられた事でありました。かくの如きは、実に是れ英雄の心事であり、非凡の態度であると思ひます。

かくて閣下の偉風を想望し、その訪日を期待してゐましただけに、一段と深刻なる遺憾を禁ずる事の出来なかつたのは、十五日夜の学生の騒擾によつて、日本政府が閣下の訪日延期を希望するに至り、閣下も止むなく之に同意されたとの報道の伝はつた時でありました。これは実に不幸なる決定でありました。

私個人のひそかに観察します所を申上げる事が許されますならば、閣下の訪日が断乎として決行される方が、却つて騒擾を鎮圧し、人心を一変し、日米両国の親善を増進する機会となつたであらうと想はれます。

或は多少の不愉快なるデモンストレーションには遭はれたかも知れませぬが、しかしながら其の半面に於いて、日本国民の大多数の、心からのあたたかい歓迎に触れて、必ずや十分の満足を得られたであらうと確信致します。

然しながら、事は既に終はりました。今更言ひて詮なき事であります。ただ私の憂ひます所は、米国民の間には、此の度の事件によつて、日本国民を、「解(げ)す可からざる国民」であり、「不信の国民」であるとして、怒りと侮蔑(ぶべつ)の声があがつてゐるといふ事であります。若し果たして日本国民を左様に考へられますならば、日米の真実の親善は、今後頗る困難に陥るのではないかと憂慮せられるのであります。

私から見ますならば、今度の学生の暴行は社会党や労働者の騒擾も同様でありますが、全く共産革命を企図する者の指導煽動によるものであります。而して共産革命を企図する者の指導煽動を、かくの如く容易ならしめたものは、数ふれば色々の原因がありませうが、その主要なる原因の一つとして、米国の占領政策そのものを考へなければならないのであります。いふまでも無く占領政策は、その初め共産主義者の画策によつて、日本を無力化する事に主眼を置かれました。そして後に至つて日本を援助し、日本と提携し、共産主義に対抗するやうに変化しましたが、変化しました後と雖も、先に執られた政策の、抜本的修正は、不幸にして行はれる事なく、そのまま今日に至り、今日の日本の不安の基礎をなしてゐるのであります。今一々詳細に述べるわけには参りませぬが、特に此の際必要と思はれる二、三の点を申上げたいと思ひます。

第一には、日米戦争の原因を、専ら日本軍閥の横暴侵略にありとして非難して止まなかつた占領政策は、日本国民の間に、軍に対する不信反感の念を強く植付け、その為に軍を邪悪なるものと考へて、その再建、即ち再軍備に反対し、延(ひ)いて日米安全保障条約に反対する風潮を馴致したのであります。

第二には、日本を無力化する為に、天皇制を弱め、神道を抑圧すると共に、日本の道徳教育の根本となつてゐた教育勅語を廃止せしめ、そして精神のよりどころとなるべき教授を追放し、その代りに従来危険思想を抱くものとして罷免せられ処罰せられてゐた所の左翼学者を大学に復帰せしめ、教授又は学長たらしめたのでありました。後に至つて共産主義者と袂(たもと)を別つて、占領政策を修正し、国家主義者に対して追放の解除を行つたのでありましたけれども、教壇はそれまでには既に左翼によつて占領せられ、而してそのままの姿で、今日に至つてゐるのであります。今日日本の大学生が、左翼によつて指導せられ煽動せられてゐるのは、実にかくの如き事情によるのであります。

第三に申上げたいと思ひます事は、占領が終つて日米両国の関係平常に戻りましてより後、米国は是等の過誤に就いて、十分注意せらるべくして、しかも注意の届いて居らなかつた為に、今日の不幸なる事態に直面して、日本国民は「理解し得ない国民」であり、「何をするか分らぬ国民」であると驚き怪しむ結果になつたのであると思ひますが、是れは米国が日本と交はる上に、主として巧みに英語をあやつる日本人と交はるのは、自然の道理であり、やむを得ざる所でありますが、その結果として、日本の中核をなす大多数の日本人の精神が注意せられずに来ました事は、不幸であつたと思はれます。

日本国民の大多数、しかも其の中心をなす所のものは、日本に生まれて日本に死し、否、日本の為にはいつでも一命を捧げる事を辞しない、愛国心に富んだ善良なる人々であつて、彼等はロシヤ語を知らず、共産主義を好まないと同時に、英語にも不慣れであり、デモクラシーを叫ばず、苦難を恐れず、貧苦にも屈せずして、黙々として働いてゐるのであります。彼等の仰ぎ見るは天皇陛下であり、彼等の精神の支柱となつてゐるものは、今日といへども、明治天皇の教育勅語に外ならないのであります。

凡そ世界の政治体制を、共産主義とデモクラシーの二つに分類し、それ以外のものを認めない考へ方は、正しいものではないと思はれます。事実は、それぞれの民族、それぞれの国家に於いて、それぞれ独自独特の人生観、世界観があり、宗教があり、歴史があつて、従つて政治体制も千差万別であります。それは、しかあるべき理由があつて、さうあるのであり、さうあつて、それでよろしいのであつて、それを他国、他民族にまで立ち入つて、無理に変革を強制すべきではないと思ひます。

この道理は、既に閣下先年(一九五三)の宣言(Address)の中に於いて、

Any nations attempt to dictate to other nations their form of government is indefensible.
と明快に論ぜられた所であります。しかるに不幸にして、その無理な変革を強制せられたのは日本であります。日本今日の混乱動揺は実にかくの如き強制によつて、本来の伝統が無理に枉(ま)げられた所から来てゐるのであります。それを歎き、それを是正したいと、苦心し、苦悶してゐるのが、今日の日本であります。

日本が、正しい日本の伝統に復帰するのは、容易な事ではありますまい。しかし必ず伝統に復帰するに違ひありせぬ。しからざれば、国内の不安動揺が止まないばかりでなく、ややもすれば東洋の、否、実に世界の不安動揺の原因となるでありませう。その不安を除去して、日本を真の日本たらしめ、以て世界の平和に貢献するは、私共の責任でありますが、同時に米国が、此の間の事情を明確に理解して、今回の如き不幸なる出来事に累(わずらわ)されず、真の日米親善に向かつて、公明正大に進まれます事を、希望して止まないのであります。

私は長らく東京帝国大学に教授として日本歴史を講じ、戦争の終りました昭和二十年(一九四五)八月十五日、即時辞職して、その後一切の公職につかず、また生涯いかなる政党にも属せざる一学究でありますが、今回の不幸なる出来事が、米国の日本不理解を強めるのでは無いかと憂慮しますあまり、失礼をかへりみず愚見を披瀝いたしまして、敢へて閣下の御清覧をお願ひする次第であります。

 昭和三十五年(一九六〇)六月二十二日
平 泉  澄  
(Dr K Hiraizumi)
(住所 東京 品川区 北品川四ノ七三三)
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以上、紹介した親書案文は「以上昭和卅五年七月十二日、(平泉)先生の命により、名越塾頭の為に写す。飯田瑞穂」と後書きがあるのみで、誰が英文に訳し、大統領からの返書の内容がどのやうなものであつたか、目下の処、分つてゐない。

博士は何回か、伝記は書かないが、「『年譜』は増補、訂正して欲しい」と述べられてゐる。例へば、昭和三十五年正月二日には、平泉寺で「講義始」が行はれたが、何を講義されたか、段々分らなくなつていくであらう。この年は「松陰先生の詩」などが講ぜられた。

また、三十四年二月十二日の条には、「航空総隊に源田空将を訪ふ」とあるが(これは実際に訪ねられたのは三十三年十月十六日のことであつたらしい)、何の目的で訪ねられたのか、『年譜』に記されてゐるからには、重大な用件があつたやうに思はれる。

このやうに、まだまだ研究の余地の多い博士の足跡の研究を、門外漢の学者に委ねてよいのであらうか。同学諸氏の奮起を期待したい。