9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和5年10月号

加藤完治の理想

 齋藤郁子 /水戸史学会会員


茨城県水戸市内原町は現在、ショッピングモールをはじめ数々の商業施設や住宅が建ち並んでいる。

昭和十三年(一九三八)、満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所が出来るまで、この一帯は松林で覆われていて、訓練所入り口付近は道もなかった。訓練生たちは、訓練所から内原駅までの一・七キロメートルを整備し、記念に百本の桜の苗木を植えた。内原で二、三か月の訓練を終えた訓練生たちは、大陸に大きな夢を馳せながら、盛大な壮行式の後、この道を歩いて内原駅へと向かった。その数は八万六千人を超えた。

此処の所長を務めた加藤完治の足跡を訪ねてみた。


農業への目覚め

加藤完治は明治十七年(一八八四)一月、東京市に生まれる。明治三十九年、東京帝国大学工学部応用化学科に入学するが、病床の身となり三年間休学する。復学後、農学部に移る。ここで多くの交友を持ち、生涯を共にする同志、橋本傳左衞門や那須皓(しろし)と出逢うのもこの時だった。

明治四十四年、内務省地方局に就職し、帝国農会にも関わるようになった。

大正元年(一九一二)、濃霧の赤城山中で遭難する。生死の境地にあるなか、携帯していた僅かの食料に救われる。この時、「我生きん」との思いに至り、生を肯定して初めて農の意義を明確に悟った。これを実現するために内務省と帝国農会に辞表を提出した。


実践農業への道

加藤が職を辞したことを知った愛知県の安城(あんじょう)農林学校長山崎延吉が加藤に会いに来た。農業の実務経験の無い加藤と問答の末、山崎は、「僕の学校にこい。そしたら自由に実地研究をさせてあげる」「僕は君に必要な時間と費用を与え、研究に必要な農具も種子も肥料も、そして充分な土地を提供するように取り計らう、そこで思う存分に修行をしてくれ」と伝える。

加藤は、愛知県立安城農林学校の教師として勤務することとなり、実践農業への一歩を踏み出した。ここで、生涯の師と仰ぐようになる筧(かけい)克彦氏に出会う。筧氏は東京帝国大学の行政法の教授で、古神道に造詣(ぞうけい)が深く、日本精神の固い信奉者であった。

安城農林学校で、筧氏の講演を聴いて、加藤は、「何だか日本人として生れ変わったようになった。それから日本人としての受持ち分担で尽くすことに心が決まった」という。そしてその心境を、

敷島の 大和心を 人問はば
    受持分担 一心同体
と書いている。日本人としての自覚、日本精神に目覚め、信念の確立が出来た。加藤、三十歳の時である。


人づくりの場として

大正四年、大正天皇御即位記念事業として山形県立自治講習所が開設され、山形県地方課長兼官房主事であった藤井武の「地方の改良は人づくりにあり」との考えに共鳴した加藤が、初代所長に就任した。

卒業生から、「この一年間の教育で農民として働く決心がつきましたが、自分らは小農の二、三男に生まれた悲しさで、農業に必要な土地と資本がありません。どうしたら良いですか」という深刻な相談を受ける。

「どんなに真剣な農業教育を行っても、農業に取り組むべき場を与えなければ、教育は徹底できない」と考えるようになった。

加藤は豪農に、小作人への土地解放を求めたが叶わなかった。この頃の日本は、第一次世界大戦後の不況が農村をも疲弊させていたため、その解決を急務としていた。

加藤は、大正十一年から十三年にかけて渡欧視察し、先進国の農業経営を学んだ。

デンマークで国民高等学校の教育を見て、「理想的な農村教育をするには私立がよい」として、加藤は無二の親友、石黒忠篤(後の農林大臣)、橋本傳左衞門、那須皓らの協力を得て、社団法人日本国民高等学校協会の設立を提唱した。

大正十四年十二月、日本国民高等学校協会の設立が決まった。

 山形県立自治講習所の所長を務める傍ら、山形県連合青年団の指導にあたっていた加藤は、大正十四年、青年団に呼びかけて、軍馬の放牧場だった荒れ地で拓殖講習会を実施した。視察に訪れた皇太子殿下(昭和天皇)の「この土地をどうするつもりか」との問いに、加藤が「模範部落を作る覚悟です」と答えたことが契機となり、県が昭和二年(一九二七)から開墾事業に乗り出す。市町村長らの推薦を得た青年七十七人が入植した。

大正十五年四月、加藤は再びヨーロッパへ視察に向かった。その帰途、広大なシベリアや満洲の未墾地を見て、ここへの殖民を決意したという。

昭和二年二月、友部(現茨城県笠間市)に日本初の「日本国民高等学校」が開校した。校長となった加藤は次の三つの教育目標を挙げている。

 一  農村青年に確固たる人生観を与え、日本精神を涵養すること。
 二  農業労働を尊重し、これを手伸(たの)しむ精神を養うこと。
 三  農業に関する生きた知識と技能を授けること。
   さらにそのために、最も大切なことは、校長以下全職員の人格いかんである。

昭和十年、日本国民高等学校は、霞ヶ浦航空隊友部分遣隊(後に独立して、筑波海軍航空隊となる)の創隊にともない、友部から内原(現水戸市)へ移転することとなった。


青少年の満洲移民

満洲への開拓移民は、昭和七年拓務省によってその大要が樹立され、同年十月、試験移民が始まった。この後、同十年まで一千八百名が試験移民し、満洲匪賊(ひぞく)三十五万人とも称された治安の悪い中、「定着」の可能性が明らかとなり、昭和十二年より十大国策の一つとして満洲開拓のための大量移民が開始された。

ところが、同年七月の支那事変勃発により移民適齢の男子が軍に召集され実施が困難となった。代わって年齢が十八から十六歳に引下げられた。

拓務省は、「昭和十三年度満洲青年移民(満蒙開拓青少年義勇軍)募集要領」を作成した。応募資格は「数え年十六から十八歳の身体強健、意志強固にして満洲に永住する決心をし、かつ父母の同意を得ているもの」であった。昭和十三年二月十五日締切りで、八千九百六十五名が応募してきた。このため、五千名の予定を七千七百名の受け入れに変更した。


内原訓練所での加藤完治の教育

こういった事情から国内での訓練所が必要となり、日本国民高等学校協会と満洲移住協会の責任のもと職員及び卒業生を動員、僅か一か月の間に、内原の二十七町歩の土地を伐採整地し、一万人を収容する施設、いわゆる日輪兵舎五百棟近くを完成させた。昭和十三年三月一日、内原の満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所は開設された。

しかし、開所式は行われず、全てに「急ぎ」が見られた。

訓練生たちは綱領を声高らかに唱え毎日の訓練に励んだ。

 一  我等義勇軍ハ天祖ノ宏謨(こうぼ)ヲ奉ジ心ヲ一ニシ追進シ、身ヲ満洲建国ノ聖業ニ捧ゲ、神明ニ誓ツテ天皇陛下ノ大御心ニ副ヒ奉ランコトヲ期ス
 一  我等ハ身ヲ以テ一徳一心民族協和ノ理想ヲ実践シ、道義世界建設ノ礎石タランコトヲ期ス

訓練生が肌身離さず行動の指針とした『義勇軍手牒』には、「義勇軍心得」として次の二十六項目が挙げられた。

・古の武士に負るな
・生命を尊び 死を怖るな
・仲良くせよ
・常に工夫せよ
・他民族を敬せよ
・家への便りを欠かすな
・他人に親切にせよ
・楽は人に譲り苦は己に引受けよ
・規律を重んじ命令に服せ
・歩哨は任務を厳重守れ
・武器は大切にし手入れを怠るな
・農具も武器と心得よ
・部屋はよく整頓せよ
・燈火は外に洩らすな
・火の用心をせよ
・水を粗末にするな
・独り外出するな
・堂々と歩け
・口を堅く結べ
・雑談を止めよ
・愚痴を言ふな
・元気一杯で働け
・丈夫の時は身体を鍛錬せよ
・病気の時は医者の言ふことを守れ
・生水を飲むな
・毎週夜具類を干せ

青少年教育の主眼としては次の五つをあげた。

 一 健康第一(栄養、運動、睡眠)
 二 働くくせをつけること
 三 活きた科学知識を身につけること
 四 仲良くすること(一心同体)
 五 個性を伸ばすこと(受持分担)

訓練を終えて渡満する生徒に加藤所長は、「丈夫で仲良く 迷はずに」の言葉を贈った。


昌図特別訓練場での大衝突事件

内原訓練所の卒業生は、満洲での開拓事業に従事する前に、現地で約三年の訓練期間があった。昭和十四年、訓練生間の大衝突事件が発生した。

事件は、五月五日端午の節句の運動会に端を発し、前後三回に亘る衝突で発砲事件にまで拡大した。結果として百二十三名の訓練生が収監され、三十七名が公訴、幹部十九名が免職、罰俸、譴責等の処分となった。この裁判に出席するため、加藤は特別弁護人として満洲国奉天裁判所へ赴いた。裁判では、「殺意はなく偶発的に起こってしまったということを強調した」。そして最後に、「結局は僕の教育が至らなかったからこのような事態になったので、僕がどんな責任も負いますから、前途ある青年たちに対しては穏便の処置をお願いします」と裁判長に申し上げたところ、被告人たちは皆泣き出してしまい、それぞれに、自分の行動を責める発言が出、皆が皆「自分が最も悪いので、どうか罪は私だけにお願いします」と裁判長に申し出ると、同席していた者が皆、感動して涙を流してしまったという。

閉廷後、裁判長は加藤に「私は長く裁判官をしてきましたが、今日のような裁判は初めてです。死刑もあるような重罪を自分にというのは大変なことです。先生、義勇軍の教育は大成功ですね」と言葉をかけた。弁護士を務めた人は「今日の被告のような人ばかりなら、弁護士は必要なくなりますね」と訓練生の態度に敬意を表した。

結果は、執行猶予がついてまもなく出獄した。加藤は全員を引き受けて内原の訓練部長河原正男氏を代理人として現地に送り、特別訓練をして更生に務めた。


人づくりと農業

昭和十五年(一九四〇)から、農閑期に年二回、農林省の石黒忠篤大臣主催の中堅農村青壮年(二十五歳から四十五歳)の特別訓練が内原訓練所を会場とし、加藤完治所長を本部長として開催された。これには、地方長官の推薦を得た全国の農民代表が昭和十八年までの三年間に五万五千四百人が参加している。そのねらいは、

 一 皇国農民たる信念の確立
 一 戦時下、食糧増産と健全農村の運営
 一 農業報国運動展開の中核となる決心
を養うことであった。

その実践活動は、開墾・土地改良等の農作業、県内外の土地改良、道路の新設改良・河川改修、援農などであり、郷里に戻ってからは地域の中核となって食糧増産に励むことになる。

この訓練について、 終戦後の混乱期に石黒農林大臣は「推進隊員の諸君が全国の農村を守っているから、日本は滅びることは無いと思う」と自信を持って回顧している。


敗戦と加藤完治

昭和二十年八月九日、ソ連が満洲へ侵攻して来た。混乱・混迷と悲惨な逃避行があった。移民を含む異国での共存共栄は、単純なものではない。互いの民族の尊厳を守ることの実現方法は複雑である。

加藤は、GHQから取り調べを受けることとなった。満洲開拓とのかかわりについて、学校の教育方針や教育内容が主だった。情報部のクレーギー大尉の尋問の他、立ち入り調査は学校内から加藤宅にまで及んだ。昭和二十二年二月、GHQ民間情報局教育課のレオヴイ・テーミー大尉が来校し、「この学校は、戦後の日本再建に必要な教育施設であるから今後ともしっかりやって欲しい」と伝え一年半にわたる調査は終了した。

敗戦後間もなく、加藤は山形県立自治講習所を訪れた。講演の後、入殖者の一人が「民主主義についてどう思いますか」と質問した。「君は何だと思うか」との反問に「人間として尊重しなければならないものだと思います」と答えると、加藤は「そんなものは前からあったよ。大和魂が民主主義だ」と答えた。

ここに加藤がやってきたことへの自信と誉りとを見ることが出来る。


白河西郷村の開拓

昭和二十一年八月、「農業報国連盟理事」を以て公職追放の指定を受け、九月十四日、日本国民高等学校長を辞任した。その後は、福島県白河市郊外にある西郷村 (にしごうむら)の開拓(「報徳開拓地」と命名される)に専念することを決意する。

この時も、山形県立自治講習所での二男、三男の「農業に従事したいが、それに必要な土地と資本がない」人たちへの思いを忘れることはなかった。

その年の十一月十八日、西郷村「報徳開拓地」への満蒙開拓指導員養成所・青少年義勇軍訓練所生徒らの入殖指導を開始した。初めは家族主義的にと「報国農民組合」設立を指導したが、やがては自主独立個別経営へと進むことを期待した。

現在、村立小学校の校庭の先には、「頌徳『加藤完治翁之碑』」をはじめ諸記念碑が群立している。訪問した際には、小学校の先生自らが隣接して建つ「加藤完治之墓」へ案内してくれた。これらを以てしても、加藤完治の開拓事業を評価することができよう。

加藤は、昭和二十八年に日本国民高等学校校長に復帰し、茨城県国際農業研修所所長にも就任した。

昭和三十五年日本青年館で、

われわれは他人の地面をとって搾取しようというのではない。われわれの汗をしぼって自分達の生活に必要なものを作り、他の人々にも分けてあげる。こういう精神でいくので、農業だけはどこの民族もこれを通じて、平和な世界が建設できる。いくら多勢が平和、平和と口でいったって、口で平和は出来ません。どうしても自らの汗をしぼったもので、他人を助けるのでなければ、平和な世界は建設できません。

と、当時の心境があらわれた挨拶をしている。

昭和四十年四月には、皇居での園遊会へも招待されている。

現在、「日本国民高等学校」は「日本農業実践校」となり、将来の農業の担い手の育成はもとより、農業に興味のある人が体験できる場として、実習を中心とした教育により、日本の農業に貢献している。

県道を挟んで学園市場(がくえんいちば)があり、新鮮な野菜や学園の人たちが自ら加工した食品などが販売され、近隣の町から求めてくる人たちで賑っている。

最後に、加藤完治の「農業の意義」を示しておく。

農業は単なる金儲けの手段ではない。それは天地の化育に賛して人類の生存に欠くことのできない食糧を生産し、それを社会に提供して、他人を生かし自らも栄えさせていただくという尊い聖業である。

今後、日本の農業はどのように変化していくのか。加藤完治の精神は活かしていけるのであろうか。