9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和8年9月号

   今日という日 (関東大震災発生の日)
  関東大震災と防災の日    

      夏秋正文/元佐賀大学医学部助教授(文学)

大正十二年九月一日は、日本の地震や災害において 最も死亡者、行方不明者の多かった関東大震災の発生 した日です。防災の日に指定され、地震や激甚災害へ の備えを喚起する日です。

世界的に最も地震発生の多い国として、国家的課題 である巨大地震や激甚災害にどのように対応するか、 実行可能な具体策が求められます。関東大震災をはじ め、巨大地震後の復興施策につき検討したいと思いま す。日本で発生した巨大地震を歴史的な年代を追っ て、振り返ってみましょう。


 (一)『日本書記』における地震の記録

日本の歴史において、地震の発生の記載は『日本書 紀』にみられ、允恭(いんぎょう)天皇五年七月の允恭地震、推古天 皇七年(五九九)四月に推古地震が発生しています。 推古地震では、地震が発生し建造物が悉く倒壊したと され、四方に命じて地震の神を祀らせたといいます。 聖徳太子の伝記によれば、太子が地震を予測して建物 の補強を促し、地震後は税の負担の免除を建言したと 伝わっています。

さらに規模の大きな地震の記録として、白鳳地震が あります。天武天皇十三年(六八四)十月十四日に、 諸国に亘(わた)る大地震が発生しました。山崩れ、河湧くと する液状化現象を思わせる記録があり、諸国の郡の官 舎、百姓の倉屋、寺塔、神社が多く倒壊しています。 伊予湯泉(とうせん)などが潰れて湧出が止まったり、土佐では田 畑五十余万頃(けい)(約十二平方キロメートル)が海中に没 しています。加えて津波が襲来し、土佐における被害 がひどく調(ちょう)(みつぎもの)を運ぶ船が多数流失してい ます。

『日本書紀』による記録は、各諸国の地震および伊豆 諸島の噴火、熊野灘の津波など広汎な領域の地震の影 響が記載されており、南海トラフの巨大地震の発生か と推察されます。


 (二)平安時代より江戸時代までの巨大地震
・貞観地震(貞観十一年五月、八六九)

平安時代に発生した巨大地震は、貞観地震がありま す。平安時代の前期、貞観十一年五月二十六日に発生 しています。延喜元年に成立した史書『日本三代実録』 によれば、津波による溺死者が人的被害の中心である ことが記録されています。本文は漢文ですが、現代語 訳を紹介します。

五月二十七日未、陸奥国で大地震が起きた。(空) を流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫 び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。 ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地 割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに 踏みつけ合い、城や倉庫・門櫓なども数も知れず崩 れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き あがり、川が逆流して、海嘯(かいしょう)が長く連なって押し寄 せ、たちまち城下に達した。

即ち津波による溺死者が人的被害の中心をなすこと が、史料から読みとれます。流れる光が、昼のように 照らすとの記載は、地震に伴う宏観(こうかん)異常現象の一種と され、発光現象の最初の記録とされています。

ここに記載される貞観地震は、平成二十三年三月に 発生した三陸沖を震源とする東日本大震災と同様に広 範囲の震源域を有し、内陸部まで被害がおよぶ巨大広 域津波の発生となり、貞観地震と東日本大震災の類似 性が指摘されています。

・天正地震(天正十三年十一月、一五八六)
豊臣秀吉が一拠点としていた大垣城が倒壊し、結果 的に関ヶ原の戦の命運を分けた大震災が発生しています。
・宝永地震(宝永四年十月、一七〇七)
南海トラフ全域を震源域とする推定M(マグニ チュード)8・5前後の広域の大地震が発生してい ます。
・安政江戸地震(安政二年十月、一八五五)
江戸(現在の東京)の直下で発生した地震、火災に より甚大な被害死者が出ています。

 (三)明治以降の大震災
・明治三陸地震(明治二十九年六月、一八九六)
M8・3前後の大地震が発生し、最大三十八メート ルの巨大津波が発生し、死者が多数出ています。
・関東大震災の特徴と復興計画

関東大震災は大正十二年(一九二三)九月一日午前 十一時五十八分、相模湾北西部を震源とするM7・9と推定される巨大地震として発生しました。地震発生 時に昼食の準備で火を扱っている家庭が多く、また日 本海に発生した台風の影響もあり、強風が吹いていま した。大震災による死亡者は十万五千余人に及び、そ のうち九万一千余人が火災による被害でした。

火災による被害が甚大であった関東大震災の後、東京 は地震や火事に強い街として大きく変わるように、帝都 復興計画が行われました。その中心的役割を果たした政 治家は、後藤新平でした。震災時に内務大臣を務め、東 京都になる直前の東京市長も歴任し、震災前より東京 の都市計画の案を練っていました。東京を復興させるた めに作られた帝都復興院総裁に抜擢されています。

焼け野原になった東京を立て直すために、まずは幅 の広い道路造りや、街を整った形に変える区画整理に 力を注いでいます。現在の「昭和通り」「靖国通り」や 環状線となる「明治通り」が造られました。

当時はまだ自動車が普及していないことから、歩行 者の安全を確保する緑地帯を備えた広い道路は必要な いとの意見も多くありましたが、着々と実行され、今 では自動車が走る東京の主要道となっています。

後藤総裁の未来を見通す力が発揮されています。ま た関東大震災では、東京市の市立小学校の百九十六校 のうち百十七校が焼失しています。それまでの小学校 の校舎は木造でしたが、震災後は火災があっても焼け にくい鉄筋コンクリート製の「復興小学校」が建設さ れています。また小学校の隣接地には、避難場所とな る小公園が整備されています。

・平成以降の大地震(平成、令和時代)

阪神淡路大震災(平成七年)は、都市の直下で発生 した地震で、高速道路の倒壊や大規模な火災が発生し ています。

東日本大震災(平成二十三年)は、日本観測史上最 大のM9・0を記録し、巨大津波と原子力災害が重な り、未曾有の複合災害となりました。

熊本地震(平成二十八年)は震度7の地震が短時間 に二回発生しました。能登半島地震(令和六年)は、 半島特有の救助の難しさが課題でした。


 (四)大規模天災への心構え

物理学者寺田寅彦は、随筆家としても有名ですが、 巨大地震などの天災に関しても、その随筆の全集にお いて示唆に富む名言を残しています。「天災と国防」と いう一節がありますので、御紹介致します。

文明が進むほど、損害の程度も累進する傾向があ るといふ事実を充分に自覚して、そして平生よりそ れに対する防御策を講じなければならないはずである。…昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積し てその教へにたよることがはなはだ忠実であつた。 過去の地震や風害に堪へたやうな場所にのみ集落を 保存し、時の試練に堪へたやうな建築様式のみを墨 守してきた。さうした経験に従つて造られたものは 関東大震災でも多くは助かつてゐるのである。

即ち、文明の進化は、大規模な自然災害の時には、 予期しない新たな人工的災害を引き起こす危険性があ ることを示唆し、警告しています。

関東大震災の災害も、人口の密集した文明的大都会 に発生した大火災が主要因となっています。平成二十 三年に発生した東日本大震災も、巨大地震に伴う大津 波が福島原発の電力喪失という予期しない突発的事故 による、原子力災害を惹起(じゃっき)しています。

大規模地震の発生が予測される地域での人口密集の 抑制、地震多発地域での原子力発電所の設置の規制な ども考慮されています。さらには現在のような東京に 一極化した首都機能を、二、三箇所に分散化させるこ とも一案と思います。

巨大地震の予測や対応は、極めて困難な事業であり ますが、百年に一度は必ず発生しています。大地震激 甚災害に対応する国家の大計が、切望される次第です。