『日本』令和8年9月号
真わが国の安全保障上、克服すべき課題
廣瀬 誠 /元自衛官
コロナ禍から、ウクライナ紛争、パレスチナ問題、 台湾危機、そして最近の米国によるベネズエラ攻撃や 米国とイスラエルによるイランへの攻撃など、近年の 国際情勢の緊迫は誰の目にも明らかであろう。第一次 大戦以降における国際機構に国際秩序の安定を求める 動きは、国際連盟の挫折を経て、第二次大戦後の国際 連合に結実したが、その強制力は限定され、安全保障 理事会の機能不全により、特に近年は著しく期待を裏 切っているといえよう。その結果、政治経済ともに各 国とも内向きの傾向が強くなっている。
その上、最近の紛争を見ると、その戦闘様相は従来 のものと大きく変化してきている。誘導兵器による民 間への大きな被害を伴う攻撃が散見され、特に安価な ドローンによる大量攻撃は、従来の対空防護では対処 困難になりつつあるように見える。さらに、ベネズエ ラ攻撃やイラン攻撃で明らかになったのは、情報能力 の驚異的な進歩と精密誘導兵器の発達により、限定さ れた目標に外科手術的な作戦を遂行することが可能な 軍事力の存在である。平時と戦時の境界は曖昧とな り、どこまでが平時でどこからが有事なのかも分明で なくなっている。サイバー領域において、それは特に 顕著であり、平時に攻撃を受けても、受けたこと自体 が認識できない状況も出てくるであろう。
現代のネット社会では、私たちのライフラインも常 にこの種の脅威にさらされている。ライフラインへの 包括的な攻撃を受ければ、社会的な混乱は想像に余 る。私たちは、このような時代に生きている。
これまで、平和安全法制の整備や安保三文書の策 定、防衛費の増加など、近年のわが国防衛の環境整備 は格段に進んだという印象を、多くの国民が持ってい ると思われる。しかし、これで今後わが国に予想され る各種の事態に適時適切に対処する態勢は整ったので あろうか。
ホルムズ海峡封鎖の危機にあたり、わが国が何をで きるのか。「存立危機事態」によるのか、「重要影響事 態」によるのか、あるいは海上警備行動によるのか、 それぞれに事態認定上の問題や、自衛隊の権限の問題 点等新聞紙上でも論じられていた。このような問題 は、日本国憲法制定時の国際情勢に基づいた憲法の 「平和主義」と、現実の国際情勢の中で、わが国の国 益追求上必要な方策との間で苦悩した末行き着いた結 果であり、これまでも、イラク特措法等、その都度、 必要な法律を制定する等、この種問題に対処のために 繰り返してきたことである。
このようなやり方は、新法を制定して、結局は、実 力行使のための条件を細かく定めるものであり、いわ ゆる「ポジリスト」を精緻にする操作を意味する。最 も重要で選択の幅が広くかつ自由であるべき、国の生 存がかかる国家安全保障に関する「事態認定」のよう な「政治の判断」において、選択の幅を法律で規定す ることの意味するところは重大である。情勢が緊迫す る中で不測の事態が発生し、一つの行動が次の行動を 誘発する流動的な状況の中で軍事行動等が行われ、そ れらが国際社会に与える影響を考察するにあたって、 生起する可能性のある状況を平時において全て見通 し、ケースごとの実力行使の条件を考え抜いた上で、 法律の枠を定めておくことなど、人知では不可能であ る。軍事行動にはネガリストで対応すべきであり、ポ ジリストは本来、警察行動における統制のやり方であ る。ましてや、最も重要な政治選択の決断において予 めポジリストで規定するなど最も避けるべきことでは なかろうか。
わが国が、直面する厳しい国際情勢において生存と 繁栄を続けていくために、国防について、改めて根本 から考え直してみるべきではないか。ここに例示した 問題は、その背後にあるわが国の抱える大きな課題の 解決がなければ、今後とも長く続くと考えられるから である。以下、「背後にある課題」について述べる。
一つ目は、日本国憲法についてである。それが、被 占領下において所謂GHQの草案に基づいて制定され た経緯については、極めて重要ではあるが、ここでは 触れない。憲法の内容について考えたい。
第一に、わが国の「国家観」に及ぼしている影響で ある。憲法前文には次のような文章がある。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表 者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、 諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって 自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再 び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決 意し…」
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関 係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われら の安全と生存を保持しようと決意した」
前者は自国政府への「不信」を、後者は文字通り他 国や国際社会の公正と信義への「信頼」を、それぞれ 表明している。ここには、国民とその政府を分断する 「国家観」、すなわち、自国への不信が表明されている といえよう。したがって、国家の権力は、常に努めて 抑制されるべきであり、それは国家の防衛においても 例外ではないという考えに繋がっている。
第二に、これを受けた第九条の「戦争放棄」に代表 される「平和主義」である。
先の二つの表明から、「戦争の放棄」「交戦権の否 認」「軍隊の不保持」は導かれる。他国は信頼できる が、自国は信頼できないからである。このようになっ た背景には、長い戦争が終結して、憲法制定当時の占 領者米国の経済力が、世界のほぼ半分に達し、かつ核 兵器を独占する状況であったことや、戦争の惨禍の記 憶が生々しかったことがあったと考えられる。当時の 状況を考えれば、理解できないものではない。しか し、それから八十年、情勢の激変にかかわらず、全く 手がついていないのである。
いずれにしても、敗戦直後の世界情勢を踏まえて、「国家観」と「平和主義」が、憲法に定められている ということである。しかし、その後の冷戦の始まり は、米国の対日占領政策に変化を生じさせる。それ は、日本を再び米国に対する脅威とさせないという方 向から警察予備隊を創設させ、西側の一員として経済 的に復興させる方向へと転換する。憲法の「平和主 義」と現実の乖離がはじまる。
二つ目の「背後にある課題」は、既述した敗戦直後 の世界情勢を踏まえた憲法の「国家観」および「平和 主義」と、その後の現実の世界情勢の変化に対応した 国益追求の方策との間の葛藤と適応の努力に関するも のである。
この葛藤と適応の問題とは、相反する要求を満たす ために、国家が自国民や諸国民に示すべき「誠実」と いう大切な徳性を犠牲にしなければならなかったとい うことにある。日本という国が、信奉している理念と 現に実行している内容とのズレを、半ば公然と黙認し ているという問題である。目立つものを列挙すれば、 次のようになる。よく知られたものであるが、その影 響は深いと考える。
一 、自衛隊は戦力ではなく、軍隊ではないとすること
二、国の交戦権を認めないこと
三、武力行使の三要件
四、非核三原則
最初の、自衛隊は軍隊ではないという規定は、戦力 とは何かという不毛な議論を続けさせている。現代戦 の様相を考えれば、その明確な線引きは不可能であ る。それ以上に深刻な問題は、自衛隊に軍としての司 法機能面に欠落があることである。軍法会議を持たな いことはよく知られているが、それ以前に軍刑法を欠 いている。平時における国内に対応する刑法の適用は 論外だとすれば、どのような過失をすれば、いかなる 刑罰が科されるかということが、事前に明確にされて いなければ、法治国家とはいえないのではないか。さ らに、自衛隊が軍隊ではないとすることは、自衛隊員 の自己認識(アイデンティティー)を不明確にしてい る。軍人なのか、警察官なのか、一般の公務員と変わ らないのか。高い技術と「誇り」、「規律と団結」が生 まれる職業意識(プロフェッショナリズム)は、明確 な自己意識の確立がなければ成り立たない。
第二の「交戦権」の否認について。交戦権とは、 「戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国 際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力 の殺傷及び破壊、相手国の領土の占領、そこにおける 占領行政、中立国船舶の臨検、敵性船舶のだ捕等の権 能を含む」と解されている。さらに「自衛権の行使に 当たっては、わが国を防衛するための必要最小限の実 力を行使することが当然認められているのであって、 その行使として相手国兵力の殺傷及び破壊等を行うこ とは交戦権の行使として相手国兵力の殺傷及び破壊等 行うこととは別の観念のもの」であり、「実力行使の 態様がいかなるものになるかについては、具体的な状 況に応じて異なると考えられるから、一概に述べるこ とは困難」とされている。交戦権と同様の権利なるも のが、「交戦権」とは別のものであるとしているが、 では、それは何なのか。「一概に」明示できないとし ているのである。これは、軍刑法の問題につながる。
第三の「武力行使の新三要件」は、従来の三要件に 「わが国と密接な関係にある他国への武力行使」に関 する考慮を加味し、平成二十六年七月の閣議決定にお いて新三要件に該当する場合に、「武力行使」を行う ことは許容されるとしたものである。新三要件にもあ る「必要最小限の武力行使」については、軍事的視点 からは大きな制約となる。なぜなら、戦いにおいて、 最も重要な原則は、「主動」、「集中」そして「奇襲」 であるが、「必要最小限の武力行使」は、相手側の先 手による戦力の集中により、主動性を失い、集中競争 の初動において後れを取るからである。こうなってし まうと後手々々となり、最後まで「主動」の地位を取 り戻すことは難しくなる。さらに「専守防衛」によっ て相手の「奇襲」まで許せば、先に挙げた重要原則の 全てに反することとなる。「必要最小限」が、我が方 の戦いを著しく難しくする可能性は高い。理想と現実 のズレは、結果に大きく影響するであろう。
最後に、非核三原則である。前者は、「持ち込ませ ず」が議論になるが、米国の拡大抑止の傘に守られて いながら、その持ち込みを拒否することの矛盾は、戦 後の問題点の典型を示すものである。
以上述べたように、その憲法の理念と現実の情勢へ の対応との間の葛藤は、その当然の結果として、自衛 隊の性格とその運用において「軍隊」(求められてい る機能は軍隊そのもの)の姿としては大きな歪みを生 み出している。
自衛隊は、防衛出動がかかるまでは、「武力行使」 はできない、即ち軍隊としての行動はできない。その 武力行使においても、叙上のとおり数多(あまた)の制約がか かっている。自衛隊が必要なときに「軍隊」として機 能するには、適時の政治判断があることが大前提であ る。
その制約を適時適切に緩和する政治判断である「事 態認定」という「状況判断」について、細かく法律で 定めていることも再考すべきである。本来、国家の命 運がかかる事態の認識に対しては、その場その場の状 況を適時適切に検討し「総合的に判断」すべきもので ある。法律で選択の幅を規定することにはなじまない と考える。国家存続の状況において、自由であるべき 最高指揮官の判断の幅を狭めているのである。さら に、「事態認定」という考え方自体、「事態認定」する ことが相手方の判断に影響を与え、事態そのものに反 響し、そのことが「事態認定」を行うことを政治的に 躊躇させる可能性があることを付言しておきたい。 「事態認定」が法的に明確な政治的段階となってし まっているため、「事態認定」を行うこと自体が国家 意志の表明となるからである。本来、国家の生存・存 立に関わる判断は、その場その場の状況において、幅 広い選択肢から最適な方策を政府が選択しなければな らないと考える。選択肢を初めから限っていること自 体、すでに戦略的に不利なのである。
ここで述べた諸課題を解決するためには、国民自ら が選んだ「国会と政府」に信頼すること、即ち、「国 民自らの選択」と「国家」に対する信頼の回復が必要 なのではないか。まずは、国防政策を考える際や事態 対応において、はじめから選択肢を限るのではなく、 国益を基準にして幅広く判断することができるように しなければならない。
憲法の「平和主義」という理念と、国家は信頼でき ず、そのような国家の権力は抑制すべきという「国家 観」が、わが国の防衛力の整備面と運用面の限度を過 度に規定し、複雑かつ困難な状況を生んでいることを 述べた。憲法第九条の「交戦権の否認」と「戦力の不 保持」は、終戦当時の世界情勢におけるわが国の防衛 政策と戦略の骨子を示したものとして理解はできる。 しかし、本来変転する国際情勢に基づいて考えられる べき国家の防衛に関する政策・戦略を、このように容 易に動かし得ない「憲法」で規定していることの異常 さを、私たちは今、再確認するべきではないだろうか。
簡単には改正ができない憲法に、情勢の変転に適時 適切に柔軟に対応すべき国家の生存に関わる問題につ いて規定してしまうことの不合理と危険を、私たち は、改めて真剣に考えるべきであろう。
これまで述べてきた課題を解決するために、憲法の 示す「国家観」を再考し、自衛隊を「軍隊」と規定す ることは、現下喫緊の課題である。残された時間は、 ごく少ないと考える。



