『日本』令和8年9月号

今こそ、英霊とその遺族たちの顕彰を
  〜「戦没者遺骨収集派遣団」として戦跡を巡った体験を通して〜

佐波優子  /戦後問題ジャーナリスト 慶應義塾大学SFC研究所上席所員


世界各地の戦跡に残された、百十二万三千柱のご遺骨

大東亜戦争が終結してから、八十一年を迎えました。

日本では先の大戦の記憶が年々薄れていっていますが、対照的に、戦争のあった海外の現地では、いまだ日本の兵士の遺骨が残されています。そしてご遺骨を一柱でも多くお迎えをしようと「戦没者遺骨収集派遣団」が、毎年戦跡を訪れています。

今回の原稿では、その遺骨収集派遣団に十一回参加した私自身の体験談をお話したいと思います。

大東亜戦争では、様々な場所が戦場となり、何百万人もの兵士・軍属の方々が命を掛けて戦いました。大東亜戦争で戦死した兵士は二百四十万人もの数にのぼりました。百十二万三千柱のご遺骨が世界各地の戦跡に残されたままです。

兵士のご遺骨をお迎えするのが、「戦没者遺骨収集派遣団」です。厚生労働省が主体となって、兵士のご遺族、共に戦った元兵士、学生や社会人の有志(日本青年遺骨収集団:現JYMA)などで構成されています。


「どうぞ私のことを笑って褒めてください、武も笑って散ります」

私もこれまで、ニューギニア、ミャンマー、硫黄島などの戦跡へ行きました。

この活動に携わることになったのは、今から二十五年前、学生のときに、靖國神社で清掃奉仕をしたことがきっかけです。参加者の一人が、亡くなった兵士の遺書を印刷して配ってくれたのです。その遺書は、昭和二十年四月にフィリピン群島で二十三歳の若さで戦死した茶谷武(ちゃたにたけし)さんという方が、ご両親に向けて書いたものでした。

茶谷さんは、人一倍子煩悩だった父がこの遺書を読むならば、どんな気持ちになるかと書き、そして、これから生まれてくる子供たちや孫たちのことを思えば、自分たちの死も嘆くにはあたらないのだと述べ、遺書の最後にこう書いています。

日本ニ生レタ者ノミニ許サレル永遠ノ生ニ生キルトイフコトガイヘルノデス。
ドウゾ私ノコトヲ笑ツテホメテ下サイ、武モ笑ツテ散リマス。デハ父上母上オ身体ヲ大切ニシテ下サイ。サヤウナラ 武ヨリ
    

このような思いで戦地に行き、亡くなっていった兵士がいたことに、私はとても驚きました。独身で子供もいない茶谷さんが、まだ生まれてもいない「子供たちや孫たち」のことを思って亡くなったのであれば、茶谷さんの顔も知らない、戦後生まれの子供・孫の私たちが、兵士たちに報いる何かをしなければいけないのではないかと。そこで、ご遺骨をお迎えする国の事業があることを知り、参加することにしました。


「懐かしい歌を聴かせて、弔ってやらなきゃなあ」

最初に行った場所が、映画「ビルマの竪琴」でも知られているミャンマーでした。

三週間の日程でご遺骨を探しました。民家が点在している小さな村で、村長は優しく派遣団を迎え、ご遺骨が見つかるよう祈ってくれました。私たちはまず、地図を元にシャベルを持ち、土を深く掘りました。数日経ってもご遺骨は見つからず、帰国の日が近づき、焦りも増していきます。

このとき、インパール作戦に参加した元日本軍将兵のお二人も参加されていました。お二人は土に向かって、「俺たちが迎えに来たんだよ。どうか土の中から返事をしてくれ」と声をかけ続けていました。夕方になり、掘った場所に土を埋め戻す作業をしている時、お二人は土を見ながら軍歌や唱歌を歌います。「せめて戦友たちに、懐かしい歌を聴かせて、弔ってやらなきゃなあ」とお二人は寂しそうに、呟くように歌を歌うのでした。時折、お二人は泣いていて、泥で汚れた軍手を外して指で涙を拭いながら、掘り返された土地を見つめていました。 

残念ながら、最後までご遺骨を見つけることはできませんでした。ご遺骨を日本人の手で拾い上げたいという思いは達成できず、私は初回から、遺骨収集の難しさを実感しました。


土の中から見つかったご遺骨に「お父ちゃん」

現場の中で特に印象に残っているのは、ロシアでの遺骨収集です。戦後、兵士たちがシベリアに抑留され、五万五千人の方が亡くなりました。

朝早くトラックで森の中に行き、収容所があった場所の土にシャベルを入れ、掘っていきます。ロシアは気温が低いため、冷たい土の中から、頭から足の先まで残った遺骨が見つかります。シベリア抑留でお父さんを亡くされたご遺族の方が、「お父ちゃん!」と呼 んで駆け寄っていきます。それは生きた家族に再会するときのようでした。

私は最初、なぜ見つかったご遺骨がお父さんだと分かるのだろうかと思いました。するとその後、幾つもの穴の中でご遺骨が見つかり、ご遺族の方々は、お迎えした全ての遺骨に「お父ちゃん!」「親父」と声をかけているのです。身元が分かるものもなく、どれが 自分の父親なのか分かるわけがありません。しかも話を聞いてみると、遺族のお父さんが亡くなった場所は、この地点とは何百キロも離れた収容所だったのです。

ご遺族のお一人が言いました。どの遺族も、必ずしも自分の父親が亡くなった場所での派遣に参加できるわけではない。でも父の遺骨が眠っている同じロシアで、遺骨収集をしたかったのだと。ご遺族は続けました。ここで眠っているご遺骨にも、みな家族がいただ ろう。自分が、ここで見つかった遺骨を本当の父親だと思って優しく迎えてあげられるなら、きっと、いつか自分の父親が亡くなった地域で遺骨収集が行われ、今度は別の誰かが父の遺骨を本当の父親だと思って迎えてくれるはずだ。だから自分は、見つかった全ての 遺骨を「お父ちゃん」と呼ぶのだと。

このご遺族の言葉を聞いて、私が真っ先に思い浮かんだのは、茶谷武さんの遺書でした。これから生まれてくる子供たちや孫たちのことを思えば、自分たちの死も嘆くにはあたらないという箇所。茶谷さんにとっては、全ての子孫のことを自分の子供や孫のように慈しんで、命を抛(なげう)ったのではないでしょうか。それはまるで、全ての子供たちと茶谷さんが親と子として繋がっているようです。逆の点で同じように、今度はシベリア抑留で父親を亡くした遺族は、全ての遺骨を父親だと思っている。まるで全ての遺骨と、そのご遺族が、子と親として繋がっているようです。

そう考えると、私たち日本人は、「実の親と子」、「祖父と孫」という直接の関係性だけではなく、戦歿した英霊にとっては、今を生きている全ての日本人が自分の子や孫であり、今を生きている私たちにとって全ての英霊は、自分を守ってくれた「父親」であるといえるのではないでしょうか。


遺骨収容の現場で起こる不思議な現象の真相とは

ノモンハン事件で多くの日本人が戦死したモンゴルの遺骨収集に行った時のことです。灼熱の中、土を深く掘って行きます。私たちは疲れ果てながらも、夕方になると急に涼しくなる草原の風でしばし休息をとっていました。

するとどこかから、一匹の黒い蝶々が飛んできました。あ、大きな蝶だと皆で見ていると、その蝶はノモンハンで戦った元兵士の鈴木さんの周囲ばかり舞うのです。ご遺族の方々が、「不思議だなあ。鈴木さんにくっつきたがっているようだよ」「今日お迎えしたご 遺骨の一人が、鈴木さんの戦友で、お礼に会いに来たんじゃないか」と言います。鈴木さんは嬉しそうに蝶が舞うのを見つめています。ご遺族の一人が「良いなあ。俺の父ちゃんの蝶々も飛んできて欲しいよ」と言うと、皆、そうだなとしみじみとしました。鈴木さん の顔にひらひらと蝶の羽がぶつかり、わっと驚いた声を出したので皆で嬉しそうに笑いました。疲れが溜まる現場での、ほっとするような憩いの瞬間でした。

実はこうしたことは、多くの現場で起こります。ニューギニアでは、派遣団が慰霊碑に到着した途端に雨が降ったり、遺族が父親への手紙を読んだ直後に、突然強い風が吹いて、木の葉が意志を持ったように舞ったりすることがありました。その度に、ご遺族や戦友 の方々は「お父さんが、戦友が、会いに来てくれた」と喜んでおられます。

他の現場の派遣団員も、突然の雨や風に、亡くなった兵士が喜んでいるのだなど、口々に不思議な現象の話をするのです。

私は、そうした現象を見ても、最初のうちは「そうはいっても、スコールの多い地域だから、雨は頻繁に降るだろうし」などと懐疑的にも思っていました。しかし、こう考えました。

戦争で父親を亡くした遺族にとって、父に会うことは一生かけても叶わない願いです。幼い頃に父が戦死し、顔もよく覚えていないという遺族もいます。それでも何とか、父の面影に触れたい、生前の父を感じるものに触れたいと切望するのが遺族の心情です。そん な時に、父親が亡くなった国に遺骨収集に行くこととなる。先ほどのシベリアの話のように、派遣団は人数も限られ、一つの国に行けるのは年に数人です。「この派遣が一生に一度の機会だ」という遺族も沢山います。悲願の地にやっと来られて、「この地で父は亡く なったのだから、子である自分に会いに来てくれるのではないか」と遺族は願うのです。

そこで、雨が降ってきて濡れる。強い突風が吹いて葉っぱなどが顔に当たる。その時遺族は、「ああ、やっぱりお父ちゃんが会いに来てくれた」と思うのです。

それが、ただのスコールや風だったのか、父親が会いに来たものなのかは、私には分かりません。しかし、これだけは確実に思うのです。

私たちが日本の普段の生活の中で、道を歩いていて、突然にわか雨が降って来たらどう思うでしょうか。慌てて折り畳み傘を出したり、近くの建物の庇(ひさし)の下に逃げ込んで、雨から逃れます。濡れた衣類や持ち物を見て、不運を嘆いたりもします。突風が吹いて来た時も顔に葉がついたり目に塵(ちり)が入って来て、手で払ったことがありますよね。

こうした、日本で起こったら迷惑に感じるような自然現象が、遺骨収集の現場では、亡くなった兵士が会いに来てくれたという思いになるのです。それだけ、ご遺族にとって、亡くなった父親は、忘れられない存在だったからこそです。戦後何十年も慕われていた父 親は、生前、それだけ家族を慈しみ、愛情を注いで来たからこそなのではないでしょうか。

その思いの強さは、遺族と戦死した英霊が強い家族の絆で結ばれていたが故のものだと思います。たとえ幼少のころに父が出征して、顔も覚えていないとしても、語り伝えられた家族の物語を、敬慕の念を抱きながら強く胸に刻んでおられたのでしょう。


なぜ、遺骨収集の現場で不思議な現象が起こるのか。それは、それほどまでに、戦死した英霊が家族に慕われて来たという、日本人の深い心の絆の証(あかし)だと思うのです。


茶谷武さんは遺書の中で、「日本ニ生レタ者ノミニ許サレル永遠ノ生ニ生キルトイフコトガイヘルノデス」と書きました。

日本に生まれた者のみが、永遠の「生」に生きることができる。死んでも生き続けるという意味ではなく、亡くなった後も、誰かが、自分たちのことを覚えていてくれる。偶然降っただけかもしれない雨なのに、「お父ちゃんだ」と自分のことを思い出してくれる。そのことこそ、まさに、永遠の「生」に生きていると言えるのではないでしょうか。

私は遺骨収集を通じ、こうした遺族の方々の思いに触れる中で、「戦死した兵士への慰霊と顕彰の思いを、茶谷さんが言うところの「これから生まれてくる子供たちや孫たち」である私たち日本人が、これからもずっと受け継いでいく必要があると実感しました。


「親戚中の厄介もんだ」

アメリカ軍との熾烈な戦闘のあった硫黄島では、温度計は五十度を超え、とても暑い島でした。父がこの島で戦死したという遺族の方が、身の上話をしてくれました。まだ幼い頃、父が戦争に行くときには、村中が「万歳、万歳」と言って送り出してくれた。そして 父は硫黄島で戦死。終戦後、母親も体が弱く、早くに亡くなったそうです。親戚に預けられても、たらい回しにされ、次々に預かる親戚が変わります。そんな中、戦後の日本では、アメリカによる「日本が悪かった」という世論誘導が広がっていきます。戦時中は「万歳」と言って父を送り出してくれた村の人も、いつしか戦争に行った軍人を悪く言うようになり、居心地の悪い思いをしました。また成人して就職しようとしても、父親の署名がないと採用しないという職場も多く、なかなか働き口が見つからなかったそうです。


 「俺は、親父が死んでから、親戚中の厄介もんだ。みんなに嫌われたんだ」

身の上話の最中、ご遺族の方は、そうおっしゃいました。他の遺族の方々からも、同じような話を沢山聞きました。幼い子供にとって、戦争で父親を亡くすことは、どんなに辛いことだったでしょうか。青年になっても多くの苦労を背負ってきたご遺族の方々のことを思うと、大変胸が痛みます。

軍人を巡る世間の態度は、戦前と戦後で大きく変わりました。しかし、私が遺骨収集の現場でお会いしたご遺族たちは、皆、いかなる苦労があっても、父親への敬慕と誇りは変わることはありませんでした。皆さん、生涯を通して戦死した父を慕い、誇りを持っておられました。そして戦地で遺骨が見つかると、「お父ちゃん!」と呼びかけて駆け寄っていくのです。


焼け野原になった日本を復興させた、ご遺族の方々

戦後八十一年、あと十九年経てば、あっという間に「戦後百年」が来ます。その時、どれだけの日本人が「戦後」という言葉に実感が持てるのでしょうか。

今を生きる日本人の使命は、英霊が護り紡いでくれた私達の命への感謝の思いを、これから生まれてくる後世の若者に伝えていくことだと思っています。

そしてその感謝の思いというのは、戦争で亡くなった兵士だけでなく、息子を、兄弟を、夫を、父親を亡くしながらも、戦後歯を食いしばりながら、この日本で日々の生活を頑張ってこられたご遺族の方々にも、同じように持ちたいと思います。

大東亜戦争で二百四十万人の兵士が亡くなったということは、一人の兵士に両親、兄弟、妻、子供たちがいたと考えると、一体何人のご遺族の方々がいたのでしょうか。昭和二十年、焼け野原になった日本を復興させたのは、無数のご遺族の方々でした。

私自身は、直接の親戚で戦死した人はいませんでした。ですが、全ての戦歿者を自分の父や祖父だと思って、これからも英霊が祀られている靖國神社や護国神社で手を合わせて行きたいと思います。

その際には手を合わせながら、一柱でも多くのご遺骨が帰国できることへの願いと、ご遺族の方々への労いや顕彰の気持ちも、心の中で唱えて行きたいと思っています。