9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和7年6月号

 桜の餘香(六)   ― 花は桜木 人は武士 気概は高山彦九郎 ―
      片山利子/作家

「花は桜木 人は武士 気概は高山彦九郎」。幕末の志士たちが好んで歌った端唄(はうた)(江戸時代末期に庶民の間で流行した、三味線に合わせて歌う短い歌)です。

高山彦九郎正之(まさゆき)は、林子平、蒲生君平と共に「寛政の三奇人(さんきじん)」と称された尊皇思想家です(奇人とは風変りではあるが立派な人という意味)。

延享四年(一七四七)六月十五日、現在の群馬県太田市細谷で、新田十六騎のひとりとして南朝に尽くした高山遠江守(とおとうみのかみ)重栄(しげひで)を祖とする高山家の次男に生まれました。新田義貞の兵(つわもの)の中に十六人の弓の名手がいて、常に行動を共にし、敵をことごとく倒したそうです。『太平記』(巻十四)の記載によれば、人々はその強弓(ごうきゅう)の兵を新田十六騎と呼びましたが、記載されてある名前は十七名で数が合いません。註にも指摘があります。祖父貞正は、先祖が帰農して蓮沼姓を名乗っていたものを高山姓に戻すほど南朝を敬慕しており、祖母りんも幼い彦九郎に『太平記』を語って聞かせました。りん歿後、彦九郎は墓前に喪屋を建て三年の喪に服しました。『墓前日記』に、服喪中喪屋に籠って、多くの和歌を詠み、その様子を聞いた近隣の人々が大勢弔問に訪れたことを記しています。

彦九郎は、十八歳の時、志をたて祖父に置文を残して京に上りました。京に着くや、三条大橋の袂(たもと)に正座して御所を遥拝し、その荒廃ぶりを嘆いたといわれ、今でもその場所に銅像が建っています。

京では、儒者の佐藤尚絅(しょうけい)に付いて山崎闇斎の崎門の学問を学びます。以後生涯のほとんどを旅に過ごし、公家の伏原宣條(ふしはらののぶえだ)、岩倉具選(ともかず)、大名の上杉鷹山(ようざん)、学者の柴野栗山(りつざん)、長久保赤水(せきすい)、藤田幽谷(ゆうこく)、細井平洲、賀茂季鷹(かものすえたか)、大槻玄沢(げんたく)、前野良沢(りょうたく)、柔術家の江上観柳(えがみかんりゅう)、画家・書家の池大雅(いけのたいが)、俳人の加賀千代女(かがのちよじょ)、学者・探検家の木村謙次、林子平(しへい)など三百人を超える交友関係を結びました。

彦九郎は、学問上の著作は残しませんでしたが、膨大な日記を認(したた)め、その一部が『高山彦九郎日記』全五巻として刊行されており、広範な活動の軌跡を窺い知ることができます。農村の疲弊を憂い、窮民の為に借金を申し出て、京の商人白木屋の主人から援助を受けたり、天明三年(一七八三)の浅間山大噴火の際には、その被害の様子を絵図にして伏原宣條に「帝の御慈愛を下々の者たちに賜るよう」頼んでいます。この噴火に対する幕府の対応は、東日本大震災の折の政府の対応などとは比べようもないほど迅速且つ適切であったという記事を読んだことがありますが、それでもやはり、彦九郎は、天皇の思し召しに勝るものはないと考えたのでしょう。

また旅の途中で出会った親孝行な人たち、忠義を尽くした人たちを顕彰して、人心の教化運動を続けています。親に孝を致し、主に忠を尽くす、これは大義名分論の基礎であり、幕末の尊皇攘夷運動につながる先駆的な教化運動でもあったのです。

日記には、旅をした里程、方位、人口、産物、風俗を、神社参拝の折にはご祭神の名や由緒を、寺院参詣の折には、ご本尊の名や梵鐘の銘文なども克明に記してあり、精緻な日本地誌とみることもできます。地理学者長久保赤水との交流から地図の素養も磨かれ、折柄(おりから)のロシア南下に危機感を持つようになり、寛政二年(一七九〇)十月、蝦夷(えぞ)地(現北海道)に渡ろうとしますが、渡航許可が下りず果たせないまま、仙台まで戻り、林子平と一夜語り合い、次のような歌のやり取りを日記に残しています。

林子平『海国兵談』の印の歌とて
  伝へては 我が日の本の 兵(つわもの)の
    法の花さけ 五百年(いおとせ)の後
 友直(子平)が歌の末の言葉をとりてよめる
  五百年の 末の松山 外の浜     波風たたじ 蝦夷か千島も

子平は『海国兵談』に、ロシアが千島を手に入れようとしている旨聞き及んでいると書き、清にもかつての元寇を思い合わせて警戒の念を示し、対外危機を訴えていました。この夜、彦九郎は、子平の攘夷論に接し、海防意識が大いに切磋されたであろうことは想像に難くないのです。

天明から寛政にかけて京を中心に、皇威回復をめざし、堂上(どうじょう)・公卿(くぎょう)に学問を講じるための学校建設運動が生じました。この運動にも彦九郎は身を挺しています。伏原宣條をはじめとして楠木正成を尊敬する人物が関連していました。しかし、学習院として開講の運びとなるには、弘化四年(一八四七)まで待たねばなりませんでした。この学習院は、幕末の一時期、尊攘派志士たちの政治活動の拠点ともなるのです。

この学校建設の動きと相前後していわゆる尊号の一件もその端を発しました。光格天皇が父君である閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王に太上天皇(だいじょうてんのう)の尊号を贈ろうとされたご孝養心から発した運動です。「寛政京都日記」には、後に本一件で処罰される公家たちの間で奔走する彦九郎の動きが、婉曲な記述のなかに垣間見ることができます。

この頃、体の両側面から尾にかけて緑の毛が生えている亀が見つかり、文治の兆(きざ)し、祥瑞(しょうずい)の現れと珍重され、天皇をはじめ、上皇、宮方、学者に至るまで緑毛亀旋風が巻き起こりました。天明八年の火災で焼失した御所の新宮殿造営と相俟って儀式が古式に戻りつつあったこの時期に、緑毛亀運動はこの流れを推進させる意味もあったのでしょう。彦九郎はこの緑毛亀を献上したことで、光格天皇に拝謁する栄誉に浴しました。その感激を歌に詠んでおります。

  我を我と しろしめすかや すべらぎの
    玉のみ声の かかる嬉しさ

明治になって、故郷太田市に創建された高山神社境内に歌碑が建てられました。彦九郎は、この緑毛亀の図を持って西国へ赴くのです。学校建設と尊号一件につき西国大名を奮起させるための浪人使節であったのでしょう。しかし、薩摩は起ちませんでした。それどころか、幕府の監視を逃れて九州をさまよう中、学校建設・尊号一件の失敗とそれに関わった人々が幕府により処罰されたことを知ります。尊号一件については、老中松平定信の反対もあったのです。朱子学の立場からすれば、いかにご孝養心からとは言え、天皇の御位になかった親王に先の天皇を表す太上天皇の尊号をお贈りするのは、筋が通らないということでしょう。この一件を契機に、将軍家斉も父である徳川治済(はるさだ)に大御所の尊号を贈ろうとして尾張・水戸両徳川家、定信と対立、定信の失脚にも繋がるのです。また、学校建設も絡めば、尊皇思想を鼓舞して処刑された竹内式部(たけのうちしきぶ)や山県大弐(やまがただいに)に継ぐ人物を続出させることになるという危惧もあったでしょう。ただし定信は、新宮殿造営には力を尽くしています。決して朝廷を蔑(ないがし)ろにしたわけではなく、少々堅物で朱子学を信奉していた故、筋を通したということでしょう。彦九郎は、絶望の内に病を得て久留米の儒医・森嘉膳宅を訪れました。ここにおいて寛政五年六月二十八日(一七九三年八月四日)、日記に記したこの件の重要部分をすべて処分し、「私が日頃忠と思い、義と思っていた事すべて不忠不義となってしまった」と言い残して、壮絶な自刃を遂げたのです。彦九郎の辞世です。

  朽ち果てて 身は土となり 墓なくも
    心は国を 護らんものを

明治天皇から後年、次のような御製を賜りました。

   高山正之
  国のため 心尽くして 高山の
    いさをもなしに はてしあはれさ

死して後も「国を護らん」との彦九郎の魂は、さぞや恐懼(きょうく)し、感激の涙を流したことでしょう。